1.はじめに

 

 第13期資料として公開するのは、海外の銀行との取引関係などの資料群である。主として満州の金融機関と中国および南方の金融機関に関連する資料であり、原分類では「満州」あるいは「マ」、「支那」あるいは「シ」などの原分類記号が付されているものが多い。この点では第35期にかけて公開した「対中国投資」や「対外投資」も同様で、原系列ではいずれも広い意味で中国・満州地域などの支店関係資料として整理されていたものと考えられる。支店などの関係資料に含まれていた資料のうちから別置され、資料の原系列が金融機関ごとの整理ではなかったことから配列に前後あり、金融機関ごとのまとまりに乱れがあるが、この原系列の配列順の原則は不明である。

 

2.主要資料の紹介

2-1 十五銀行、台湾銀行、朝鮮銀行

 リストの冒頭にあるのは01「十五銀行」(頭書の番号は資料の配列番号)は、昭和2年4月21日に休業した同行に対する取引状態に関する確認のための資料(支店からの報告など)と、その債権債務関係整理の過程に関する資料である。これによると、 神戸支店の420日現在の対十五銀行取引残高は、輸出関係合計472,264円余、輸入関係22,896円、大阪支店の輸出為替残2,550,502円、輸入45,728(東京支店はいずれも残高なし)であった。輸出合計3,022,766円のうち2,494,000円は東洋綿花輸出手形、輸入合計68,624円のほか、「今後到来すべき取次信用状の残高」が101000円あり、これを加えると輸入は169000円の見込みであった。詳細は資料を精査する必要があろうが、これについての担保として正金銀行は日本綿花会社差入れの定期預金25万円など預金証書30万円ほか、株式が記録されていることが手掛かりとなろう。

 続く02「台湾銀行」は、金融恐慌直後の台湾銀行救済・再建に関わる意見書などが主として収録されている。具体的には、赤司初太郎「台湾銀行善後私見(再論) 昭和二年五月一三日」、赤司初太郎「海外発展の急務に就いて(臺銀善後私見第三論)昭和二年五月一八日」、赤司初太郎「台湾銀行の救済並にその善後策に就いて」、藤山雷太「台湾銀行問題卑見 (昭和二年四月二十八日:推定)」、田健次郎「台湾銀行閉鎖に対する応急施設に関する献議」などである。また、この綴りには430日付けで台湾銀行頭取森広蔵から横浜正金銀行頭取児玉謙次宛の挨拶状なども含まれている。それによれば、「弊行ノ基礎ヲ鞏固ニスベキ適切ナル方策ニ就テハ既ニ設置セラレ居ル台湾銀行調査会ノ審議ヲ俟チ其ノ結果議会ノ協賛ヲ経ベキモノアラバ政府ニ於テ速ニ其措置ヲトラルルコト相信シ候」と具体的な破綻処理については、台湾銀行調査会に委ねているものの、「日本銀行非常貸出損失補償法ノ適用ニ依リ速ニ開店トスルコト最モ緊要ノコト」として、「開店ノ必要条件トシテハ貴行御借入金ニ就テ此上御迷惑相懸ケ甚ダ恐縮千萬ニ奉有上候得共弊行ニ対スル何分ノ対策樹立セラレ候迠御猶予方御承認奉願候」と、不良債務化していた正金からの貸付について、猶予を願い出ている(この不良債務の発生過程については、武田晴人『鈴木商店の経営破綻』日本経済評論社、2017年参照)。台湾銀行としては、正金銀行と契約に基づく返済の一時棚上げが出来なければ、開店自体が遷延するということであった。こうして、体勢を整え直して実行されることになる債務整理の経過に関わる資料もこの綴りに含まれている。これに対して、台湾銀行の二冊目(03)は昭和9年以降の敗戦時までの台湾銀行との為替取引関係の記録資料の綴りである。

04「朝鮮銀行」は、朝鮮銀行が第一次大戦期に満州の金融統一の任に当たることとなったことに対応して正金銀行在満州出張店を閉鎖し、これに伴って正金銀行が満州において発行した金貨および日本銀行兌換券を引き継ぐことになったことに関する書類綴りである。これによると、朝鮮銀行は大正61130日現在の残高を引き継ぎ、引き継いだ金券と同額の日銀券を正金銀行に交付することとされたが、そのうち300万円については、無利息・十年賦で支払いとなったという。次の綴り(05)の原題は「朝鮮銀行 四」となっており、連続する簿冊が少なくとも四冊存在していたことをうかがわせるが、他の綴りは残されていない。また、06「朝鮮銀行大連支店に対し三千万円限度設定」は表題通りの資料であり、昭和161213日という太平洋開戦直後の時期に、正金銀行が大連支店を経由して朝鮮銀行に対して「融資令」による2000万円と営業資金融資1000万円の合計3000万円の融資記録である。

 08「日支為替銀行」は、大正13121日の株主協議会の議事速記録をはじめとする中華匯業銀行関係に関する資料である。当日の協議会に出席したのは山口銀行、近江銀行、日本綿花、住友銀行、第一銀行、第百銀行、三菱銀行、三十四銀行、台湾銀行、鹿島銀行、朝鮮銀行、日本興業銀行の代表者であり、日本側主要出資者との協議のため日本国内でこうした協議会が開催されていた。その趣旨を協議会において同行の小野理事から「業務上ニ於テ特ニ数年来振ハサリシ上海支店カ正金銀行ヨリ招聘シタル副支配人ノ経営ノ下ニ大ニ為替事務ノ刷新ヲ図リタル結果本年ニ入リ相応ノ成績ヲ示スニ至リ又去三月天津ニ支店ヲ開設シタルニ是又初年度ヨリ収支相償フヘキ見込アルハ同慶ニ堪ヘサル所ニシテ幸ヒ今回昨年度就任セラレタル小林専務理事ノ上京アリタルヲ以テ親シク仝氏ヨリ当行ノ現況ヲ聴キ尚本年度決算並ニ来春北京ニ於ケル株主総会ニ提出スヘキ利益配分案ニ付キ予メ各位ヨリ諒解ヲ得置キ度キ旨ヲ述ヘラレ小林専務理事ヲ一同ニ紹介ス」と説明されている。また、この綴りには、1928年末に同行の経営難による休業という事態に直面して作成された「中華匯業銀行整理存続改組復業案綱要」と題する書類などが綴られている。日中戦争期以降の資料が多い中で、大正後半・昭和初期の資料として貴重なものということができる。

 09「日本通商銀行」と題する二冊の綴りは、大正11年に横浜正金銀行リヨン支店の営業を引き継いで日本通商銀行という名称の新銀行を設立する計画に関する書類である。同名の銀行は国内銀行として大正元年まで存在していたが、これとは別のものである。なぜ、この時期にこのような設立計画が立案されたのか、興味が尽きない資料である。

 

2-2 満州関係金融機関

DSCF8088 11「満州国銀行法に関する書類」は表題の通りの法規集であるが、12「満州中央銀行」以下、満州中央銀行関係の書類が多数残されている。最初の6冊の綴りは、昭和771日の設立までの準備過程からはじまり、開業後の正金銀行との業務関係・取引関係の資料、また同行調査課の各種調査資料などが綴られている。これらは、満州事変期から満州中央銀行が旧紙幣を回収し満州中央銀行券を通用させるための諸方策などを中心とした記録(たとえば、昭和925日付、大連支店作成の資料「満州中央銀行ニ於ケル旧紙幣ノ回収ト発行ノ現状」)である。また1920の各年度既業務報告書をはじめ、為替取引関係記録などの資料群は、満州中央銀行の営業状態などを総括的に知りうる資料と考えることができる。

 このほか、戦時期にはいってからでは、31-34を中心に「特別円」関係の資料がまとまっており、「満州国為替資金特別円勘定ニ関スル満州中央銀行横浜正金銀行間協定書」などの資料や「契約書」が残っている。横浜正金銀行頭取席内国課作成の「満州国円資金逼迫問題」(昭和155月付)によると、「満州国ノ対日支払超過ハ本年一月以降急激ニ増加シ遂ニ去三月頃ヨリ中銀ノ円資金逼迫ノ徴候現ハレ」たのに対して、対日依存を無制限に継続することは出来ないとの判断から満州興銀500万円、商社600万円ほどの送金を差し止めた事情が紹介されている。根本的な原因は満州国の国際収支の不均衡にあったが、その結果、満州中央銀行は日銀に対して14501万円の借越をはじめ、鮮銀2600万円、北支未決済分4500万円など2.6億円の資金不足が発生していることが記録されている。こうした背景もあって、昭和182月の契約では、正金銀行は5億円を限度とする借越を認めたことが判明する。これらは為替集中制との調整も必要となる措置であったようである。

 

2-3 中国本土関係金融機関ほか

35からは中国本土に営業を展開した金融機関となる。35は関係法規集であり、時期的には大正2年から9年ころ、つまり第一次世界大戦期の中華民国内における銀行法令の整備に関わる綴りである。また36-38は中国連合銀行と支店ごとの来信綴りである。なお43以降も中国連合銀行関係の資料である。なお、41「華商銀行関係」の書類は、大正13年に発生した5万ドルの不渡手形の回収処理に関する資料であり、この処理は昭和9年ころまで続いていたようである。

43「旧支那銀行券」は旧法幣に代わる朝鮮銀行券・軍票の流通への懸念から対策が必要となったことに関わる資料である。この綴りには背景を次のように説明する文書が残っている。すなわち、

「一.北支ニ於ケル法幣其他支那側通貨ノ供給異状ニ梗塞シ之カ緩和ハ民心ノ安定上刻下ノ急務ナリト認メラルル所北支民衆ハ未タ朝鮮銀行券ノ使用ニ馴レサルモノアリ今後益増加スヘキ軍ノ現地支払ニ専ラ朝鮮銀行券ヲ使用スル時ハ其対法幣相場ヲ益低落ニ導クニ過キス而シテ朝鮮銀行券若クハ軍票ノ通用及其相場維持ノ為ニ強制的方法ヲ採用スルコトハ事変ニ対シ帝国政府ノ今日迄執リツツアル方針及北支民衆ニ及ス影響ニ鑑ミ之避クルノ要アリト信ス

二.依テ茲ニ河北省銀行、中国、交通銀行其他主要支那側銀行ノ参加協力ニ依リ北支金融ノ自主化ヲ策シ速ニ支那側通貨特ニ河北省銀行券流通ノ途ヲ講シ以テ皇軍ノ活動及我カ為替政策ニ供スルト共ニ後方地区ノ治安ノ確保及民政ノ維持安定ニ資シ併セテ今後ノ北支経営ニ要スル我国ノ負担ヲ出来得ル限リ緩和スルヲ適当ト信ス」(昭和12916日 青木次長より大蔵、陸軍両大臣宛)

 続く中国連合銀行に関するひとまとまりの資料のうち、45-47は対連銀預ケ合勘定に関する資料であるが、関係契約書をはじめ「対連銀預ケ合契約並別途借入契約締結ニ関スル交渉ノ現状メモ」があり、これによりおおよその経過を知ることができる。昭和18923日の契約に関わる「要領」によると、これによって供給される資金は、日本政府国庫金の支払資金、経済開発資金(北支那開発株式会社所要資金、開発関係会社所要資金、準国策会社所要資金)、日支間国際収支決済資金などであった。戦争の拡大とともに必要とされる資金の供給がどのようなルートで実現されていくのかを知ることができる資料ということができよう。また、49「中国連合準備銀行クレジット関係」では、「対中国連合準備銀行クレジット設定顛末」という資料が同行設立にともなって必要となったクレジット設定までの経緯をまとめている。このほか、52「中国連合銀行創立経緯」に収録されている「中華民国臨時政府ニ対スル中国連合準備銀行出資資金融通要項()」によると、出資金は900万円と350万円の二口で前者は興銀、鮮銀、正金が三行按分で、後者は鮮銀が単独で中国政府に融資することによって調達された。融資条件は期間10年、前者は金利4.4%、後者は2%程度と想定されていたこと、900万円口は興銀債券を発行し金資金特別会計で引き受けること、後者は国庫保有銀を鮮銀に貸し付けて調達される計画であったことなどが、まとめられている。

 56以下の華興商業銀行関係資料は、同行の設立関係書類および同行と正金との取引に関わる記録、同行の貸借対照表などの営業実態に関わる調査資料などである。

 これ以降、華北工業銀行の設立関係書類、満彊銀行との為替取引に関する書類、外資金庫法の制定に関する資料、中央儲備銀行の設立関係資料などに加えて、印度支那銀行との為替取引実態に関する資料、南方開発金庫など各種の金融機関関係資料が含まれている。このうち、南方開発金庫関係の資料では、南方開発のための物資買付資金に関する貸出計画と実態が、たとえば昭和171010日について、以下のような計数を知ることができる。貸出に関わる契約に比して、実際貸出高が極めて少額であることが印象的である。具体的な分析を進めていく必要があるとはいえ、以上の断片的な紹介から、この資料群が多様な関心を呼び起こしうる資料であることは明らかであろう。

 

南方開発金庫物資買付資金貸出一覧表        1000

貸出先

貸出地

契約高

実際貸出額

備考

正金銀行

マレー

17,750

0

 

 

ジャワ

19,550

0

 

 

ビルマ

10,000

6,450

 

 

合計

47,300

6,450

 

台湾銀行

比島

7,450

0

 

 

セレベス

3,200

0

 

 

南海ボルネオ

6,500

100

 

 

セラム

900

0

 

 

 合計

18,050

100

 

総計

 

65,350

6,550

 

 

 

3.おわりに

 以上のような諸資料を含むのが第13期に公開される「対金融機関」と分類された部分の資料群である。いずれも新しい発見に満ちた資料群であり、すでに公開に供されているさまざまな関係資料とつきあわせることによって実り多い成果が期待できる。なお、後続する為替関係の資料についても順を追って公開していきたいと考えている。

 最後に、これまでの資料解題でも述べたように、収録にあたっては、個人のプライバシーなどに配慮すべき点は配慮し、歴史的な事実として公開しうる範囲に限定して、研究目的の学術資料として公開するという原則をまもることを指針としてきた。これは、貴重な資料を寄贈しマイクロフィルム資料として公開することを認めてくださった原所蔵者である東京三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)の強い要請でもある。このような学術研究にとってかけがえのない資料を公開するためには、利用する研究者の側も遵守すべきルールがあることを、私たちは片時も忘れるわけにはいかない。そのことについては、繰り返し注意を喚起し、また、そうした明確なルールに基づいて資料が利用されることによって、今後一層の資料の保存・公開が可能になるということを、本資料の利用者の皆さんに特にお願いして、解題の筆を擱くことにしたい。

                                                      2017125日記

横浜正金銀行資料マイクロフィルム

第13期解題

東京大学名誉教授 武田晴人