横浜正金銀行資料マイクロフィルム第11期解題東京大学 武田晴人
1.編纂室資料の内容と収録範囲
第11期資料として公開するのは、横浜正金銀行年史の編纂のための資料類である。これらは第1表のように全体として882点が確認されており、そのうち編纂事務などの書類を除くと歴史資料として価値があるは、800点弱となる。その6割を占めるのが今回公開される「編纂資料」の1から4に分類されている475点である。
第1表 正金銀行史編纂室資料の概要
この資料は、横浜正金銀行全史を編纂する際に、新井真次氏が編纂室の座右において利用したものと推測される。ただし、編纂室の資料となっていたのは、これだけに限らない。実際には、すでに公開されているものも含めて経営関係の資料を中心にかなりの点数のものが編纂資料となっていた。東京大学に資料が寄贈された時、すべての資料は東京銀行の書類函に番号を付して収納されていた。前表60-12に分類されている「在丸の内倉庫内書類目録1−5」によると、資料は「丸の内倉庫」に収蔵されていた時代に一度分類・目録作成されており、その分類順に書架に配架され、函に収納される際にこの棚番号が函番号として付されていた。それらの函を開いて目録と照合すると資料の現物が収納されていないものがあり、散逸が疑われた。このうち、上記「書類目録」に×印が付されているものは、いずれかの時期に廃棄されたようで、最終的に現物を見いだせなかった。
ところが、この棚番号由来の函番号とは別系列の函番号があった。このうち東@〜Iは東京銀行からの紛れ込み資料であったが、そのほかA〜GまでのF函と(1)〜(92)の92函の合計99函がそれであった。この99函に収納されていたのが、編纂室に収蔵されていたと推定される資料だったが、そこには書架の配架場所に即して作成された目録に記載されながら、原本が確認できなかった資料も混在していた。新井氏は編纂に必要な資料を書架から抜き出して編纂室に持ち出し、資料として利用していたと推測された。当然のことながら重要な資料は編纂室に持ち出されていたから、それぞれのまとまりを尊重して編纂資料の中に小分類を置いて整理することも考えられたが、それとは別に単独のタイトルで原系列の資料群から抜き出されたものも散見されたことから、整理は原系列の復元、つまり丸の内倉庫に配架されていたときの資料の整理状況に戻すことを目標に資料の整理が行われた。その結果、第11期で公開される編纂資料は、原系列への復元が確実には行い得なかった資料と編纂室が独自に作成した資料、さらに新井氏に先行する数次にわたる銀行史編纂過程で作成されてきた資料などが主たる構成要素となっている。二次的な資料も含むということであるが、銀行の歴史をよく知る人物の資料選択には、それなりの意味はあるだうろう。
念のため、原系列への復元などの措置によって年史の編纂資料から別の分類に移動した資料を示すと、第2表のようになる。「本店関係資料」として分類されている重役会、総会、要録、考課状、諸伺、指令、通達などに加えて、「調査関係資料」のなかで行報、調査資料、調査報告、調査部特報、岸資料、伊藤和雄寄贈資料などは、ほぼ全体が編纂室に持ち出されていた。その一方で、1点、2点と抜き出されたものもあり、これらは原史料に付されていた添付番号などを手掛かりに復元して、原系列に分類し直されている。どのような資料が抜き出されていたかについては、資料整理の記録の意味も込めて、付表として末尾につけておいたので参照されたい。
第2表 編纂室資料から分類替えされた資料数 単位 点
2.編纂資料1
編纂資料の1〜4は、その内容と形態を手掛かりに2〜4を別の分類としているが、1について基本的には函に収納された順序に従って配列されている。それ故、多様な資料が必ずしも順序立てて並んでいるわけではない。
この編纂資料1の冒頭にあるのは、「横浜正金銀行年報」という表題が付されている11冊の綴りである。
この年報は、大正9年から昭和21年までを「第三次営業開始から満州事変まで」2冊、「満州事変より大東亜戦争まで」3分冊、「大東亜戦争から終戦まで」3分冊、昭和21年上期、下期、21年4月以降各1冊で構成されている。大正9年から書き起こされているのは、『横浜正金銀行史』(旧行史)が大正9年に刊行されており、後続の銀行史編纂事業が、この後の時期を対象時期に想定していたからであろう。加えて、関東大震災による資料の喪失などのために、旧行史の時代にさかのぼることが難しかったことが、このような記録編成に影響したものと考えられる。
年報と表題されているが、これは毎年毎年作成されていたものではなく、編纂事業の一環として後になって記事を集めたものであろうと推測される。この点は、同じ編纂資料1の86~91の「横浜正金銀行の記録」6分冊が−−吉岡久継の作成となると記録されている−−明治期にまでさかのぼった記事が収録されているとはいえ、大正9年以降はほぼ同一の内容でまとめられていることにも対応している。完成した『横浜正金銀行全史』も編年体の記述、つまり年ごとに事業環境や事業内容の変化を記述するスタイルをとっていることにも共通する考え方であった。吉岡作成の「記録」と年報との関係は、おそらく「記録」を基礎に新しく作成されたのが年報であったと考えられる。『三菱社誌』などで採用されている歴史編纂の形式といえば分かりやすいかもしれない。
記述内容は、事業活動に関わる主要事項を簡単な記事としてまとめたもので、大正9年の冒頭部分の記事を摘記すると、次のようなものがならんでいる。すなわち、
○欧州経済界復興強調案、○日銀借用金利率改定、○欧米の東洋向け利手利率変更、
○インド為替変更、○営業年限の延長、○サイゴン出張所開店、○対支新借款団に加入
○財界の大変動、○金融恐慌、○七十四銀行の整理と横浜興信銀行の新設・・・・
と続く。最終の昭和21年4月には、「正金改組の経過」と題する記事が67頁にわたってまとめられているが、こうした大きな記事のまとまりを別にすると、一般的にはそれぞれ数行から10行ほどの記事があり、詳細な年表という性格のものであった。
記事の分量は戦時経済期にかけて増加しており、大正9年は経済的に混乱期であったこともあって70頁を超えているが、それ以降昭和10年までは30〜40頁、昭和11年から16年までは60頁ほどであったのに対して、17年293頁、18年371頁、19年211頁というように厚みを増していく。それぞれ半期ごとに目次が付されているが、これは頁番号の付け方などから判断すると、いったん編纂された年報に後から目次を作成して挿入したもののようである。
編纂資料1に含まれる資料のうち編纂室が作成したと推定される資料には、このほか、資料番号73〜80の「取引先篇」「制度及金融篇」「業務篇」「覆轍篇」がある。いずれも二冊ずつあり、内容的には同一と考えられるが、書き込み等の異同を詳細に検討する余裕がないので、二冊ともマイクロ化してある。この資料は事業活動を区分して、表題のような分類に従って主要な事項をまとめたものであり、「取引先篇」では鈴木商店との取引経過などが記述される。「覆轍篇」は、銀行が関係した事件史(不祥事の記録)であり、1918年にカルカッタ支店で起きた不良貸出事件などの取引に関する事件だけでなく、行員の引き起こした不正などの記録がまとめられている。また、資料番号264〜270の「頭取歴代一覧」などの資料も同様に編纂過程の作業成果とみられる。
こうした二次的な資料とは別に、明治期を含めた史料も編纂資料1には含まれている。たとえば資料番号17「買弁関係」は明治40年代に正金銀行中国所在支店が買弁を介してどのような取引を行っているかを調査した結果である。前後の関連資料があまりないので確定的なことはいえないが、この資料によって一つの支店からの回答を表示すると第3表のようになる。一支店の取引量としてこれがどのような意味を持つのかは、これらの資料を用いた本格的な分析によって明らかになることが期待できる。なお、この綴りには昭和期の調査であるが、上海支店による「当地香上銀行支店ノ買弁ニ就テ」と題する調査資料も綴り込まれている。
第3表 買弁経由支那人との取引額
この資料に続く資料番号18〜22は日露戦争期に満州などの戦場域で発行された軍票に関連する資料のようである。このうち19「軍票整理ニ関シ各店ヘ訓達通牒等」は、この軍票の整理に関わり、戦時から戦後にかけての対処方針等が綴られている。そのなかに、明治38年12月16日の「秘密命令」などが含まれている。これは、日露戦後の政府の対満州政策に関係して、正金銀行が同月、取締役会で満州統轄店規定を議定して政府の認可を得ると同時に、外務・大蔵両大臣からその実行の順序・処務の心得が令達されたことに関連する命令であった。『横浜正金銀行全史』第3巻(107-108頁)によると、政府の指示は、「@正金は満州地方における金融の中枢機関として市場を支配し、同地方の利源を開発し、経済を発達させ、日清貿易の発展を図ること、A追って軍用手票の後継者とする目的をもって満州で一覧払手形を発行し、実際の情況に応じて緩急を見計い、密かに軍用手票を回収整理するとともに、将来一覧払手形を同地方の公貨とすることを期すること、B満州における業務の基礎を確実ならしめるため、これに要する資本金額を特定し、かつ、特別積立金を設けること、C満州におけるわが商人その他企業者にして確実かつ信用ある者に対して、直接間接になるべく低利の資金を融通すること」などを内容とするものであったと記されている。ただし、これに加えて同日、外務大臣桂太郎と大蔵大臣曽祢荒助の連名で「秘密命令」がででいることはふれられていない。これに関連する秘密命令の内容は、本資料によると、次のようなものであった。
「一、満州各地ニ於ケル清国各種ノ租税其他清国政府公金ノ保管出納方ヲ引受クルコトヲ期スベシ
一、清国殊ニ満州ノ貨幣ヲ統一整理スルカ為信用不確実ナル取引ノ媒介物例ヘハ馬蹄銀・・・等ハ漸次之ヲ制限若クハ禁遏シ之ニ代ユルニ日本一円銀貨ヲ基礎トシテ幣制ノ実行ヲ期スルニヨリ其行ハ此方針ト相應シテ単独若クハ清国ト共同シテ満州造幣局設立ノ経畫ヲ進ムヘシ・・・」
租税収納などの公金業務を引き受けることや日本円を流通されることを計画しているなど、日本政府の対満州政策を垣間見ることができる。
資料番号33「明治十五年対朝鮮国政府貸付金に関する書類」は、赤いファイルケースに収められたものであるが、そこには右のような契約書等が収められている。ただし、この貸付の経緯についてはつまびらかではなく、『横浜正金銀行全史』第2巻(p.40-41)によると、明治15年12月に「正金から大蔵省に紙幣17万円の預入を願出で、これを銀貨12万500円に切替え、年8%利付、2カ年据置・10カ年賦返済の約束で、朝鮮政府へ貸付けた」と記載されているが、「当時正金がいかなる事由でかかる貸金をしたかは、今これを考証することができない」もので、「事実上わが政府から朝鮮政府へ融通されたもので、正金は単にその取扱を命じられただけに過ぎないものと思われる。ただ、これは正金が政府の内命で貸付金を取扱ったこと、すなわち、官命融資の嚆矢というところに意義がある」と評価されているものである。この契約書が原本であることは、押印などが朱で残ることから間違いなさそうだが、なぜこの契約書だけが残っているのかなど、前後の事情も含めて不明の点が多い。
資料番号50の上申は記載年次から見るともっとも古い資料に属するが、これは正金銀行に関連する大蔵卿佐野常民の文書で、おそらくは公文書館などから複写したものと考えられる。
原史料として貴重なものとしては、資料番号59〜68「極秘電信」の綴り、資料番号104〜113「水津弥吉氏 通信複写簿」などもある。前者は頭取宛、あるいは支配人席宛電信と主要支店から電信の綴りである。また後者は満州の支店などに在勤した水津弥吉氏から提供されたものであろう。
電信の記録は、本店関係資料のうち10-05に分類されている「支配人席書信外」などとあわせて参照されるべき資料と思われるが、短い電文の中にその時代の生の姿を写している。たとえば昭和6年12月初旬、横浜正金銀行は為替市場が日本の金本位制の維持に疑念を強める中で、資金繰りの困難に直面していた。『横浜正金銀行全史』は、この時期の様子を次のように記述している(第3巻、492頁)。
・・・12月に入り、 日本の金本位維持にはいよいよ疑懼の念が深まるのを見たニューヨーク支店は、同月7日同店facility余力を全部使用して年越借入した結果、手元現金余裕高1200万ドルとなり、同12日には金現送代り金1125万ドルの入手が予定されたはか、facilityの増加可能額として200万ドルを見込んでいた。ところへ、間もなく同月11日若槻内閣総辞職に際し、ニューヨーク支店の借入金残高は2,250万ドルで、そのうち1月上旬期日分は1,000万ドルであった。が、しかし、万一日本の金本位制度に動揺を来たすときは、前回の金輸出禁止当時と違って、同地銀行はいずれも不安警戒気分が濃厚の際なので、借用金の大部分は期日に回収される恐れもあった。よって、同店は、臨機速かに現送を決行するよう幹部に要請し、頭取席が年内積出2000万円を取りあえず手配した・・・・
資料を対照すると、この記述の後半部分は、12月11日発電のニューヨーク支店からの極秘電信(右図)を写したもので、これに対して頭取席から12日の電信で、15日横浜出帆の関東丸と浅間マルでそれぞ1500万円(合計3000万円)を現送することが伝えられた。上に引用されている『横浜正金銀行全史』の記述は2000万円となっているが、資料での当初の通知額は3000万円であることの違いがある理由は分からない。あるいは、15日までに金額の変更があったかもしれない。この現送の知らせに対して折り返しニューヨーク支店から政変(内閣の更迭)と金本位制に対する新内閣の方針にかかわらず、必ず現送するよう12日発電で確認が届いた。そうでなければ「由々敷結果ヲ来ス」というわけであった。このやりとりから分かるように、少なくともニューヨーク側は金輸出再禁止になるかどうかの確報を得ないまま、きわめて厳しい見通しの下に対応を迫られていた。当事者の息づかいが聞こえてきそうな一幕であろう。
3.編纂資料2−4
編纂資料の主要部分をなす「編纂資料1」は以上のようなさまざまな資料を含んでいる。これに続く、編纂資料2及び編纂資料3は、いずれも点数の少ない分類である。前者は編纂室資料の中で、大判の封筒にまとめて封入され、タイトルが付された資料9袋からなる。形態が違っていることに加えて、このひとまとまりの資料が武内龍次氏からの寄贈資料と判断されることから、別の中分類に区分することにしたものである。この中には刊行物なども含まれているが、武内氏が保管していた書類などの一次資料も含まれており、そのほか同氏が関係したと推測される調査の報告原稿などである。
また、編纂資料3は東京銀行への改組に関連する一群の資料である。これは別にまとめられている東京銀行関係資料として、あわせて分類することも考えられたが、東銀資料と分類されているものは、資料の保管整理の過程で正金銀行資料に紛れ込んだものであるのに対して、この編纂資料3にまとめた資料は、少なくとも正金史編纂のために新井氏が編纂室で参照したと考えられるものであるため、編纂資料の中に残した。
最後の編纂資料4は、編纂過程で新井氏が執筆の参照資料として取りそろえたものと考えられる調査類等である。従ってこれも一次資料ではなく、正金銀行によるものだけでなく、日本銀行や大蔵省、外務省、外部の調査期間などのが同時代的に調査を行った結果を、活版印刷に付して配布したものなどが中心をなしている。それ自体として金融史の貴重な資料群であると同時に、年史編纂過程で新井氏がどのような資料を参照したのかを知ることもできるものである。
以上が第11期の公開資料である。毎回記していることだが、多くの資料が研究者の分析のメスが入るのを待っている状況にある。いずれも新しい発見に満ちた資料群である。一人で多くの研究者がこの資料を調査し、学術的な成果を上げることを期待している。
最後に、これまでの資料解題でも述べたように、収録にあったっては、個人のプライバシーなどに配慮すべき点は配慮し、歴史的な事実として公開しうる範囲に限定して、研究目的の学術資料として公開するという原則をまもることを指針としてきた。これは、貴重な資料を寄贈しマイクロフィルム資料として公開することを認めてくださった原所蔵者である東京三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)の強い要請でもある。このような学術研究にとってかけがえのない資料を公開するためには、利用する研究者の側も遵守すべきルールがあることを、私たちは片時も忘れるわけにはいかない。そのことについては、繰り返し注意を喚起し、また、そうした明確なルールに基づいて資料が利用されることによって、今後一層の資料の保存・公開が可能になるということを、本資料の利用者の皆さんに特にお願いして、解題の筆を擱くことにしたい。
2015年9月9日記
付表 編纂室保管史料のうち個別的に各分類に移動された資料のリスト
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