横浜正金銀行資料マイクロフィルム第9期解題東京大学 武田晴人 マイクロフィルム版横浜正金銀行史資料の第9期は、分類の異なるいくつか資料群から構成されている。いずれも昭和戦前期のものであり、とくに戦時体制が深化した時期の資料群が多いが、それらのうち、第一は、大分類部で総務関係に含まれる、資産・資金凍結に関わるものである。第二は、支店関係の資料のうち、A満州支店関係の資料、B「円域雑」とまとめられている円ブロック内の支店資料、C軍票関係の資料、そして、「対外投資」に分類されているD中国財政等に関係する資料群である。 中心になっている支店関係資料については、地域ごとに分類され、順次マイクロフィルムでの公開を進めているところであるが、これで支店単位の分類分は完了することになった。 1. 産・資金凍結関係資料(14-10 総務−凍結関係) この分類の資料は頭取席外国部の下でまとめられた資料20点である。これらはいずれも、昭和16(1941)年7月、日本軍の南部仏印進駐を受けて、ルーズベルト・アメリカ大統領が日本資産を凍結するという対日経済制裁を行ったことに関連して作成されたものである。この措置はアメリカと共同歩調をとったイギリスやオランダなどの関係地域でも実施されたが、本資料は、その関係国・地域の法令をまとめ、あるいは各国の措置を順次、本店に報告した記録を綴ったものである。たとえば、『日本資金凍結日誌(英系)』は、7月27日の第一号から「日誌(英系)」として、日を追って展開する凍結措置の推移を記録しており、同年12月24日の第77号までが一綴りとなっている。これらの記録がアメリカ関係、蘭印爪哇など、それぞれ地域ごとにまとめられており、対抗的な措置としての中国・満州での資産凍結の関係資料が一部含まれている。 2.満州支店関係資料(23-01、23-02 支店2 満州1〜2) 支店関係の資料は、第7期、第8期の資料解題でも紹介したように、正金銀行時代の分類と思われるラベルが付されている。ここでは、そのうち「満州 **」という添付票が付されているものが集められている。「満州」の添付票には2系列あり、頭取席為替部のゴム印が押されるものが多い。このうち分類「満州1」には原系列で1から29までの25点(添付番号2,9、28が不明)が整理されている。また「満州2」は別系列の添付票「満州」(整理部と付記された添付票)が付されている資料2から18までの16点(同じく、1,3,7が不明、添付表なしが1点)が整理されている。 全体で40点ほどの資料のうち、何点かの資料を紹介しておこう。 「満州1」の冒頭にある資料『満州対日資金調整措置』と題する資料には、昭和15(1940)年4月11日づけの横浜正金銀行新京支店から満州各店に宛てた「日本向大口送金ニ関スル件」がある。これは、対日送金の増加に伴い資金繰りに問題が生じないように、一口10万円以上の日本向け送金については、あらかじめ満州中央銀行との協議するよう求めたもので、「日圓資金調整実施要綱」によってその具体的な措置を指示している。 つぎの『満州各店金繰(中銀借越契約関係)』には、そうした措置がとられた前後の各店の資金繰り状況が計数的な側面も含めて記録された資料が綴られている。その中の一つに「全満銀行貸出高表」という資料がある。これを表1に示す。 表1 全満銀行貸出高 単位1000円
原注 昭和16年末興銀貸出高の激減は満州重工業に対する貸金4億円を社債に振り替えたため。 注 正金銀行シェアは筆者による計算結果の追加。 これによると、横浜正金銀行の満州域内での貸出は、15年頃から強い増勢のもとにあり、そうした変化が資金繰りへの懸念と、これに関連する措置に至った背景にあると推測される。また、こうした横浜正金銀行の地位は戦時体制の深化とともに高まったことも確認されよう。日本の戦時体制にとって満州の地域的な重要性を考えると関係資料の数量が少ないように見えるが、それは、満州地域が、それまでの時期には横浜正金銀行の主たる活動地域ではなかったことを反映しているものと思われる。 また、「満州1」の22、23には『大豆・雑穀・農業公社等』と題する2冊の綴りがあり、昭和17-18年に横浜正金銀行が満州の農産公社を介して現地の農産物収買資金供給にどのように関わったかが明らかになる。そのなかにある昭和18(1943)年12月6日付け「満州農産公社本年度資金所要額ノ件」(横浜正金銀行頭取席清水総務部次長より大蔵省銀行保険局特別銀行課長櫛田光男宛)によると、当年度には収買による所要資金額が当初予定の7.5億円では不足し10億円への増額が必要となったことから、それに対応した貸出額が決定された。決定額は、横浜正金銀行2.4億円、満州興業銀行2.1億円、興農金庫1.2億円、共同融資特別勘定1.6億円、大連各行2.7億円(横浜正金銀行0.9億円、朝鮮銀行1億円、その他各行合計0.8億円)であった。横浜正金銀行は「大連各行」ないの分担分を加えて合計3.3億円、すなわち所要額の3分の1を引き受けたことになる。この面からも横浜正金銀行の地位の増大をうかがい知ることができよう。 「満州2」の4『満州中央銀行関係 軍費貸上明細』は、昭和19年9月13日に日本銀行総裁渋沢敬三と満州中央銀行総裁西山勉の間で締結された契約書に基づいて実行された満州国内での軍費等日本政府の国庫金支払い資金の現地調達措置に関連した書類綴りである。この契約では、現地調達に必要な円資金の不足に対処するために日本銀行が満州中央銀行に対して、国債の据置担保額を超えて資金融通することが合意され、その窓口として横浜正金銀行が手形貸付の型式で貸出を実行することになった。昭和19年9月15日の第1回貸付実行1億円から、記録が残っている20年8月9日まで11ヶ月間で23回(うち20年3月27日2億円、8月9日一口1億円、別口10億円、他はすべて各回1億円)で総額34億円が満州軍費として貸出(資料表現上は「貸上」)されていた。 以上のように、各資料を精査すれば太平洋戦争期を中心に、横浜正金銀行が満州においてもきわめて重要な役割を果たすようになっていたことを明らかにすることができるであろう(各店利益については後述)。 3.「円域雑」関係資料 太平洋戦争期に円ブロックが拡張されていくなかで、中国、満州、南方という地域別の分類とは別に、「円域」という括りで資料がまとめられているのが、この「円域雑」という資料群である。ここに分類された資料は三系列あり、「円域雑1」は「満州1」と同様の添付番号があり、1から102まで101タイトル(18、53が欠、54がABの2つの綴りがある)となっている。整理部の印がある「円域雑2」は1から82までの添付番号があるが、残っているのは44点に過ぎない。また、もう一つ別系列と判断されたものが「円域3」であり、これも37までの添付番号があるが33点しか残っていない。「円域雑2」と「円域雑3」は同一の分類とすべきものであるかもしれないが、外見的な形状等から判断して統合することはできなかった。 さて、この資料群の冒頭には「為替制限」という表題のある資料が数点収められている。これらの資料から「円域雑」とされる資料が円ブロック内の広域の為替取引等に関わる措置などをまとめたものではないかと推測される。すなわち、昭和14(1939)年4月20日の大蔵省為替局から横浜正金銀行宛の書類「第三国向再輸出ノ虞アル貨物ノ満支向輸出為替ニ関スル件」では、日本から満州及び中国向け輸出品が中国内での円安を利用して第三国に向けて輸出されることを抑制するために、横浜正金銀行に対して特定の商品についての為替取引は事前に当局の承認を求めるようにとの指示があったことが明らかとなる。 また、昭和17年12月27日には、頭取席為替部から内外各店支配人席宛てに「本邦対南方間、並ニ南方対其他地域間ニ於ケル 一送金為替、旅行信用状及追加携帯ニ関スル所制限一覧表、二送金為替ノ処理要項 御送付ノ件」が送られており、表題の事項について取扱い手続きの周知が図られている。 これらの広域の関係支店の経営状態については、「円域雑1」のなかに資金繰予算や各種の計数をまとめた大きな表の綴り、日報などのデータが多数含まれており、それらは分析を待っている状況にある。 支店の利益については、満州支店に限られるが、「円域雑1」の79『各店利益』によって、たとえば昭和19年上期について次のような状況であったことが知られる。 表2 満州各店支店利益・経費
この資料では、「正金ノ収益ガ専ラ外国為替ニ依存シテキタノハ昔ノコトデ最近ハ此ト並ンデ一般貸付ニヨル利益ノ比重ガ増大シタコトハ我々ノ常識トナッテイル」と書いている。状況の変化の一端をよく示すデータというべきであろう。なお、この満州店での純益額合計2500千円は、横浜正金銀行全体の純益金の19.6%にあたったという。 4.軍票関係資料(「支店2 軍票」) @からBの資料が原資料の添付票に基づいてまとめられているのに対して、この資料群は、東京大学が受け入れた時点で、軍票関係としてまとめられていたものである。このまとまりは、これまでもふれたことがあるが、原資料を正金銀行史の編纂のために整理し倉庫に収蔵する際に分類されたものと考えられ、その時期に作成された目録にも一括して記載されている。資料の総数は全部で24点とそれほど多くはない。これを支店資料として「支店2」の末尾に配列しているのは、これらの資料が添付票では、下記の表3に示したように、「支那」などの添付票が付されているものだからである。これらについては、この添付票に従って、中国支店等に配列することも可能であるが、利用の便宜なども考慮して、別項目を立ててまとめることとした。 表3 「軍票」分類の原資料添付番号対照表
従って、これらの資料は第二次大戦後の資料整理に際して支店資料からその内容に従って抜き出されたものであり、資料の性格から見れば、これまで説明してきた支店資料と同様のものということができる。 5.中国財政他資料(31-05対外投資、中国財政他) この資料群は、すでに第3期から第4期にかけてのマイクロフィルム出版によって公開された対外投資に関する資料群に属するものである。第4期の解題でも断ったように、その時点までの整理に基づいて第4期の刊行によって、横浜正金銀行の対外投資関係資料の「ほぼ全容」を示したと考えていた。しかし、その後、これらの公開時には未整理であった資料群のなかから、対外投資に関連する資料が見出されたため、これを追加資料として「中国財政他」としてまとめたものである。従って、この資料群の性格については、第3期・第4期の解題ですでに紹介したので、ここでは詳細は省略する。 以上が第9期の公開資料である。すでに記したように、多くの資料が研究者の分析のメスが入るのを待っている状況にある。いずれも新しい発見に満ちた資料群である。公開の事業も支店関係についてはこれで完了し、随時未着手の分についても進めていくつもりであり、第8期の刊行に際して遭遇した不測の事態も克服して、新しい体制での公開作業が着実に進められるようになっている。 最後に、これまでの資料解題でも述べたように、収録にあったっては、個人のプライバシーなどに配慮すべき点は配慮し、歴史的な事実として公開しうる範囲に限定して、研究目的の学術資料として公開するという原則をまもることを指針としてきた。これは、貴重な資料を寄贈しマイクロフィルム資料として公開することを認めてくださった原所蔵者である東京三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)の強い要請でもある。このような学術研究にとってかけがえのない資料を公開するためには、利用する研究者の側も遵守すべきルールがあることを、私たちは片時も忘れるわけにはいかない。そのことについては、繰り返し注意を喚起し、また、そうした明確なルールに基づいて資料が利用されることによって、今後一層の資料の保存・公開が可能になるということを、本資料の利用者の皆さんに特にお願いして、解題の筆を擱くことにしたい。
2013年10月30日記 第1期の資料解題でも明らかにしたように、現存する横浜正金銀行史資料は、昭和初期から戦時期にかけての資料が圧倒的に多く、今次の資料もその性格を強く反映している。資料のタイトルなどから知りうる限りは、震災後数年のうちに編成されはじめた一連の資料が多く、中国支店についても同様であるが、借款関係資料については、その開始期である日露戦争後からのものが相当する含まれていることに特徴がある。 1.上海支店資料第二期に公開したロンドン支店、ニューヨーク支店と並ぶアジアの主要支店となる上海支店の資料の構成は、おおむね上記に支店と類似しており、『上海支店要録』『上海支店』『上海来翰』と題する資料が中心となる。このうち、『上海支店』と題する綴りは上海支店当ての頭取席からの通信の記録であり、『上海来翰』はこれと反対向きの通信の記録となる。残されている資料は、『要録』は、昭和2年から14年まで、『来翰』は大正15年から昭和14年まで、『支店』と表記されるものは、昭和3年から14年までとなっている。 それぞれ記事の構成などについては、前記のロンドン支店など大きな差はないので省略することにするが、それぞれ短い電報のやりとりなど本支店間、支店間などで交換される情報の要点が記されている。 たとえば、昭和12年7月12日の「上海支店要録」には、まず、 北平より七月八日発 昨夜北京場外芦溝橋付近ニ於テ夜間演習中ノ駐屯日本軍ニ対シ宗哲元軍ハ射撃シタルニ端ヲ発シ 今朝五時頃ヨリ七時頃迄激戦目下小康状態 との報告があったことが記されており、同じ日に天津支店からも頭取席に状況の報告が「駐屯軍ハ不拡大方針」と極秘電で伝えられていたが、双方の休戦撤退の合意にもかかわらず、翌9日の北平からの情報では中国側が戦力を増強していることなどが伝えられている。 こうして飛び交っていた情報がどの程度、戦闘の当事者の判断を反映していたのかはともかく、緊迫する状況を知るうえでは貴重な記録であった。ちなみに、こうした緊迫した情勢のもとで、頭取席は上海支店に対して、大蔵省の「協力方要請」を受けた形で、このような状況の下では為替相場の維持がきわめて重要であるとの認識に立って、上海支店が上海に進出している「本邦各銀行ニ対シ協力方」を慫慂するよう指示し、加えてその旨を漢口支店にも伝えるように求めている。 おそらく、これらの資料に来翰類などの各種の資料を加えれば、相当詳細に上海支店がどのように事態の推移を見守り、どのように行動したのかが明らかにしうるであろうし、それは芦溝橋事件にとどまらず、さまざまな歴史の転換点に「歴史の証言」をこれらの資料の中から引き出すことはできるであろう。 ロンドン、ニューヨーク両支店とはやや異なっている点は、『時報』と題する資料群が比較的長期間にわたって残されていることである。現在確認できるもっとも古い『上海時報』は大正15年11月22日のものであるが、それには第15号と記されているから、同年中のもう少し早い時期に作成が始められたものと思われる。 その第15号内容は、「・杭州ミント、・支那人海外移民ノ送金、・支那生糸貿易、・時局」となっており、その伝えられる内容に即してみれば、その都度その都度の関心を引いた話題を中心に編集されているように見える。もっともそうした編集のあり方は次第に変化しており、昭和恐慌後になると、基本的に「・為替と金融、・商品市況」の二本柱で構成されるようになり、この二つに時報による報告内容は絞り込まれていった。 その後日中戦争期になると、記載される内容は再び多面的になりまた一号あたりのページ数も格段と増加し、時報による本支店間、あるいは中国支店間の情報のやりとりは一段と活発となったように見える。また、その時期になると『上海時報附録』が綴られるようになることからわかるように、記事の中には調査報告などが含まれるようになる。一例を挙げると昭和16年の時報附録第一号は、「新法幣性格ノ制限的考察」と題する上海支店の報告であり、第2号は「上海銭荘業概説(一)」であった。 2.大連支店資料大連支店の資料の構成も上海支店と同様であるが、要録は昭和3年までにすぎないなど資料の残存状況にはやや問題がある。そのため、満州事変の勃発を同支店どのように受け止めたのかというような同時進行の記録を簡単に見つけ出すことはできない。来翰にはこの時期のそうした問題に触れたものは見いださせなかった。 大連支店資料の特徴は、同支店が関わる満州特産物の大豆・豆粕の取引に関する資料がかなり豊富に支店報告、支店メモなどの形で残されていることである。たとえば『大連支店報告』には、昭和3年半ばから大豆・豆粕に関する月別の統計が残されている。上海支店の『時報』に当たる資料としては、『大連支店メモ』が時期が限られるとはいえ、同支店の関わる業務や大豆などの特産物取引に関する報告がかなり詳しく記載されている。おそらくその主要な部分は上述の『調査報告』などの資料の記述とも重なるところがあると推測される。これらの資料は必ずしも系統的な残り方とはいえないものの、中国東北地域の経済状態を明らかにしていくうえで、貴重な手がかりを与えてくれるのではと期待している。 3.対中国借款(1)対中国借款関係資料は、その数もきわめて多いため、今回の公開では主として借款に関わる契約書類綴り、政府レベルで列国との協調のもとに行われた借款を中心に公開することにした。このほか、横浜正金銀行がかかわった借款には、漢冶萍公司借款を始め、中日実業関係、裕繁公司、北支那開発、中支那振興、東亜興業などを経由したものもあるが、膨大な量となるため、今回の公開では、その主要な資料群については間に合わせることができなかった。いずれ順次公開していきたいと考えている。その意味で、今回の資料群には「対中国借款(1)」とし、上記の各機関経由の資料については、「対中国借款(2)」として公開を予定したい。 さて、第三期の借款関係資料の中で、一つのまとまりを示しているのは、借款に関わる契約書類である。これらは比較的堅固な形で長期保存に耐えうるように綴り込まれており、正金銀行がそれらの資料を重要資料として認識していたことを示している。それぞれ、ほとんどの場合に目次が付されているなど、正金銀行資料としては行き届いた整理が当事者によって施されている点で、他の乱雑なままの状態が多い資料群とは異なっているといってもよい。 契約書の多くは、借り換えなどの必要が生じて事後的に改訂されているものが多いようであるが、それらもかなりていねいに同一の綴りとしてまとめられているようである。もっともこのあたりの事情については、本格的な検討が必要であろう。これについては、すでに疋田康行氏らの共同研究の成果(国家資本輸出研究会編『日本の資本輸出 : 対中国借款の研究』多賀出版、1986年3月)が公刊されているから、これらの成果とこの正金銀行資料とを対照させて作業がこれから必要となるのではないかと予想される。 なお、契約相手先の漢字表記などについては、判読不能な箇所もあり、また、通常使われていない字体等の利用を避けるため、必ずしも資料通りとはなっていないことをお断りしておく。 次のグループが「借款一括書類」としてまとめたものである。内容的には漢冶萍公司など今回の対象外とした借款に関わる資料も含まれているが、この一連の資料は、他の資料とは異なり封筒に表題を付して整理され、一連番号が付けられているため、ここに一括することとした。借款契約毎に資料がまとめられ封入されているが、おそらく業務上の整理ではなく、過去数度かに試みられた横浜正金銀行史の編纂事業に際して整理されたものではないかと推測している。資料の保存されていた原型を尊重するという意味で、これをひとまとまりの資料群としてここに整理した。 第三のグループは「善後借款」に関する資料群、第四のグループが「新借款」に関する資料群である。そして、今回公開の最後の第五グループとして、対国民政府借款などを「政府借款」としてまとめた。何れも特定の借款に関する資料綴りであり、資料名から対象とする借款等の内容は判断出来るものとなっている。それゆえ、これらの資料が指し示す借款契約の背景と内容については、改め説明する必要はないであろう。これら書類はかなりバラバラの形で保存されていたものもあり、現在のところ、関係すると考えられる資料はひとまとめにしているとはいえ、今後が内容的な検討によって見いだされるかもしれない。その点についてはご海容願いたい。 4.本店関係資料1 『通報』 第一期マイクロフイルム補遺本資料は、第一期公開分の「GroupX、通達・通報」8リールに後続するもので、大正8年11月から刊行されている『通報』および『通報号外』と題する資料からなる。 現存する『通報索引』(I024)によれば、昭和17年8月まで索引が記載され、8月刊行分に「最終号」と付記されていることから、戦時期まで継続的に作成されていたと考えられるが、『通報』について残されているのは、第1号から第156号までであり、大正13年12月までに限られる。これに対して、『通報号外』については、ほぼ全期間をカバーしているようである。 さて、『通報』は横浜正金銀行調査課がとりまとめたもので、第1号はタイプ印刷の簡便なものだが、第2号以降は活版の報告となる。 第2号の目次は、 「1 各国銀貨鋳潰点 2銀貨問題ニ関スル英国蔵相の議会に於ける答弁 3仏国銀貨鋳潰禁止令ノ要旨 4仏国銀貨欠乏 5露貨ノ下落ニ就テ 哈爾寶支店報告 6独逸ノ戦時外国起債総額 Frankfurter Zeitung 所載 7本邦対外貿易(大正八年十月分) 大蔵省発表 8仏国本年初八ヶ月輸出入累計 9英国蔵相ノ上院ニ於ケル財政演説抜粋」 となっており、精査したわけではないが、その後もこのような基本的な構成には変化がない。つまり、通報を構成する記事は、調査課の独自の調査によるものか、支店の報告、あるいは調査課が重要と判断した内外の経済状況に関する記事の転載などによって構成されていた。本店からの情報の発信であるが、その内容は正金銀行の経営状態や経営方針を伝えるものではなく、むしろ経営環境となる様々な情報を社内の各支店等に発信するという性格ものであった。 これに対して『通報号外』は、行内の個人による調査報告書の趣を持つものが多かった。その内容上の差異が「号外」というタイトルにつながったと見られるが、いずれも長大な報告類が多いことから、別冊として刊行することを便宜としたという面もあろう。短いものでも50ページを越え、『昭和十三年上半季 各国経済景況 通報号外第七十六号』(I028)では、600ページを数えている。このような経済景況報告は、その後も半期毎に作成されている。また、外国為替管理法についての詳細な解説なども「号外」としてまとめられているから、業務を担当する現場の行員にとって有用な情報提供の手段であったと考えられる。 5.本店関係資料2 「調査報告」ほか 第一期マイクロフイルム補遺本資料は、前項と同様に第一期公開分中、GroupYの「資料」に後続する資料で、行内の調査資料としては、『通報号外』と類似の性格を持っていると言うこともできる。 多様な内容を含んでいるが、まずタイトルをあげると、 @『調査報告』 第1号(大正8年8月)から第140号(昭和18年5月) A『正金特報』 第1号(昭和17年9月)〜第22号(昭和18年11月) B『調査資料』 第1号(大正9年6月)〜第五十二号(昭和17年2月) C『調査部特報』 第1号 (昭和17年7月)〜第381号(昭和19年下半季) D『調査部メモ(号外ヲ含ム)』 第1号〜381号(昭和16年)、第1号〜第97号(昭和17年) E『内報』第1号(大正8年8月)〜『調査内報』第30号(昭和14年9月) F『講演記録』第1号(昭和15年3月)〜335号(昭和20年) G『時事解説』第1号(昭和10年7月)〜第129号(昭和11年12月) となっている。 特定の管理部局で保存された資料だけではないために、綴り混みに重複があるなどの問題点もあるが、各資料とも比較的よくそろっているといってよい。 これらのうち、『調査報告』は頭取席調査課が作成したもので、その第1号は、「仏蘭西銀行営業報告摘訳(千九百十八年分)」を主題とし、書記日置政吉の翻訳したものであった。また、第二号は「支那政府内債表」となっており、個人の手になる調査、行内で必要なデータの提供、各支店からの調査報告などを先述の『通報』と同様の性格を持っていた。調査範囲あるいはテーマはかなり広がりを見せており、たとえば、昭和13年第111号では、「米国航空工業に就いて」と言うニューヨーク支店書記の記事が掲載されている。また、112号の「英国の銀行制度」は頭取席調査課書記の調査報告であったが、その端書きによると。「本稿は当課の喜田君が今春来数次にわたり通報に掲載せられたもの」と記されているから、『通報』と『調査報告』は内容的に重なる性格のものであったという推測は、この点でも確認できるであろう。 第一次大戦期からの資料となる、B調査資料 E『内報』『調査内報』は、行内業務用の情報の性格がいっそう強く意識されているようであるが、いずれも海外事情についてのかなり詳細な報告、解説を含んでおり、各国の金融関係の法令の解説や各地の貿易取引事情などの情報にあふれている。これらの資料は、綴り込まれた資料としてだけでなく、横浜正金銀行資料の中に複数、単独の刊行物の形でも残されており、それぞれの資料が参考資料として行内の各所で利用されていた痕跡を残している。たとえば、『調査内報』第25号の「大連メモ第二集」は、250ページほどの報告であるが、『通報号外』46号として作成された「大連メモ」が好評を博したことを受けて、その後に大連支店店員が発表した研究内容をまとめたものであったが、調査課によって「内容の取扱上本集は調査内報としました」と冒頭に付記されている。社外秘という情報の管理面を重視したものと見られるが、この報告では、満州における為替・通貨・金融、特産物、輸入品などがかなり詳細に紹介されている。また、この号の次の26号では、「アフガニスタン事情」が取り上げられており、正金銀行の海外事情に関する広い関心を伺わせるものとなっている。いずれにしても、これらの資料は、正金銀行の活動それ自体の研究に有意義であるばかりでなく、同時代の観察記録として、各地域経済の研究にとってもきわめて有用なものと考えられる。 戦時経済期にかかって作成されているA『正金特報』やC調査部特報。D調査部メモ(号外ヲ含ム)は、おおむね各号に一つの記事が記載され、和文タイプで打たれた原稿がガリ版刷りされて配布されたもので、速報性の強い情報の伝達手段であったと見られる。内容的には、内外の事情がランダムに配列されており、重要日誌などの記録的なものもこのなからは含まれている。時代の緊迫感が伝わる資料である。 このほか、F『講演記録』は外部で行われた各種の講演の記録をとりまとめ、正金銀行内の主要な部署に情報として提供するために作成されたものと見られ、たとえば昭和16年の第1号は1月13日に国際協会で開催された講演会において外務省嘱託であった乾精末の「米国ノ対日世論」というものである。銀行活動との関係は明確ではないが、こうした講演記録の数は同年上半期だけで60回に及んでいるから、正金銀行調査課は機会を捉えて内外の意見の聴取に努めていたことがわかる。また、時代の思潮を知ろうとする場合にも興味深い手かがりといえよう。他方で、G『時事解説』は期間が限られているが、おそらくは当時の新聞記事などで話題となった内外の経済市場等について、調査課が簡単な解説を付してタイプ印刷したもののようである。 6.支店(景況)報告 第二期マイクロフイルム補遺本資料は、第二期公開分の資料中「8支店報告」に後続する資料で、戦時期の内外店のおかれた状態を知ることができる。これらの資料のうち「××店報告」とされる綴りの多くは、その都度の報告類と計数報告が混在しているものが見られるが、今回、公開することができる「各店景況報告」と表題がつけられている資料群は、一定の様式のもとで各支店を取り巻く市場環境などが報告されている。各支店の営業状態にかかわる計数の報告ではなく、こうした報告が定期的にとりまとめられ本店に報告されるようになった背景については、つまびらかにできない。各支店の報告はそれぞれ各半期毎にまとめられ綴り込まれているが、参考のためにニューヨーク支店と上海支店の内容目次を示すと次のようなものであった。 昭和16年上半季景況報告 紐育支店 第1章概況、 第2章財政、 第3章産業、 第4章物価、 第5章証券、 第6章金融、 第7章貿易、 第8章為替、 第9章結語 昭和16年度上半季景況報告 上海支店 第1章概説、 第2章政治、 第3章財政、 第4章経済(生産工業、物価、重要商品市況、金融。為替)、 第5章貿易 見られるとおり報告の様式は完全に一致しているわけではないが、書簡類などによる報告等がその都度のトピックスに従っていたのに対して、ここでは各半期毎におおむね同様の項目について全般的な報告が各支店に求められていたところに、この資料のもつ意味を考える手かがりがあるように思われる。 以上が本マイクロフィルム資料第三期に含まれる資料の全体像である。本格的な資料整理が始まってすでに5年以上が経過し、マイクロフィルムの撮影が開始されて4年目に入ったが、もともとの700箱という段ボール箱の数からみると、公開にこぎ着けたのはまだ3分の1にも届かない。登山ならまだ三合目くらいである。しかし、ここまでくるうえでも多くの人たちの助力を仰いできている。そうした人たちの助力に応えるためには、なんとか少しずつで整理をすすめ、残りの資料群についても公開を実現しなければと考えている。公開された資料を利用して新しい研究成果が出てくれば、きっと元気が出るに違いないとも思う。その意味で、この資料ができるだけ多くの人たちの関心を呼び起こし、研究が活発になってくれればと祈っている。 これまでの資料解題でも述べたように、ここに公開する資料は、きわめて貴重な企業資料でもあり、また、横浜正金銀行の性格からして、重要な政策文書でもある。収録にあったっては、個人のプライバシーなどに配慮すべき点は配慮し、歴史的な事実として公開しうる範囲に限定して、研究目的の学術資料として公開するという原則をまもることを指針としきた。今回もこの方針に忠実であろうとつとめた。これは、貴重な資料を寄贈しマイクロフィルム資料として公開することを認めてくださった原所蔵者である東京三菱銀行の強い要請でもある。このような学術研究にとってかけがえのない資料を公開するためには、利用する研究者の側も遵守すべきルールがあることを、私たちは片時も忘れるわけにはいかない。そのことに特に注意を喚起し、また、そうした明確なルールに基づいて資料が利用されることによって、今後一層の資料の保存・公開が可能になるということを、本資料の利用者の皆さんに特にお願いして、解題の筆を擱くことにしたい。 2005年6月3日記 |