横浜正金銀行資料マイクロフィルム第六期解題東京大学 武田晴人 マイクロフィルム版横浜正金銀行史資料の第六期は、これまで五期にわたって公開してきた資料群の補足追加的な資料に加え、新たにいくつかの纏まりのある資料群から構成されている。具体的には、第二期に収録した岸資料の追加分、商業登記関係の書類、輸出生糸の補償問題に関わる書類などの特定主題の文書に加えて、本支店間でやりとりされた所管・電信・報告書類の綴りである「支店来信」である。 これまでも繰り返し指摘してきたように、現存する横浜正金銀行史資料は、昭和初期から戦時期にかけての資料が圧倒的に多く、今次の資料もその性格を強く反映している。ただし、商業登記関係の資料には明治期からのものがあり、岸資料には第一次大戦期からのものが含まれている。これに対して支店関係の資料は大正末年から昭和戦前期に関するものである。 1.登記書類 最初の資料群は、商業登記に関わる文書類である。これらは本支店別の綴りとしてまとめられており、最も古いものは、冒頭にある『本店登記書類及謄本』(明治33年〜39年)である。残念ながら創業当初の時期についての綴りは散逸したのか残されていない。『本店登記書類』は、横浜の本店に関わる商業登記関係の書類綴りであるが、その中には、全社的な問題が当然のことながら含まれる。たとえば資本金の変更等定款の規定にかかわる変更や、役員の選任・交替、支店等の新設・所在地の変更などについての申請書類が綴り込まれている。明治期については、重要とおもわれる申請の一部に、取締役会や総会の議事録が添付されており、残っている資料が少ない時期だけに貴重なものということができる。 このような本資料の性格は支店の登記書類綴りも同様であるが、支店の所在地の変更などの登記に関わる連絡なども含まれている。このうち、『東京支店登記書類』(明治32年〜大正9年)については、東京市への出張所設置申請以来の記録が綴られているほか、明治32年末の定款改正に関する修正箇所を詳細に示す総会提出議案がある。また、この改正に関連して必要とされたものと考えられるが、正金銀行の「開業免状」(明治13年2月23日)と「正金銀行創立願」(明治12年11月10日)の謄本が綴られている。 2.生糸関係書類 第2のグループは輸出生糸に関連する資料であるが、その中心は『補償並に共保生糸に関する往復文書』『滞貨生糸に関する往復文書』などとタイトルが付けられ、AからTまで原資料に添付記号が付されているものである。これらは1932年から35年にかけての「補償生糸」関係の資料である。後続の『諸統計資料(共同保管口補償貸出口)』なども同様である。 昭和恐慌期に発生した大量の滞貨生糸の政府買い上げにかかわって正金銀行が、輸出金融を介して引き受けることになった債権を回収するための措置や滞貨の倉庫保管・保険などにかかわる業務の記録となっている。 『補償並に共保生糸に関する往復文書 B』に綴られている書類のうち、1932年8月18日付けの正金から政府に対する買い上げに関する契約書案では、1930年3月19日付けで、糸価安定補償法第1条の規定に基づいて政府と取り交わした損失補償契約によって「生糸の製造または加工業者」に対して実行された資金融通の担保として受け取った生糸の総量は7337荷口、それ以前から帝国蚕糸株式会社に対して行った融資の担保が2390荷口あった。なおこの荷口数は、森本宋『生糸恐慌対策史』昭和6年によると、6月10日〆切では前者に関して8274荷口となっている(同書485ページ)。これらの資料も参考にしながら、『生糸恐慌対策史』の既述が終わる6年以降のことについて正金銀行の文書から経過を確認することもできるだろう。 補償の具体的なあり方については、1932年10月19日付け本店支配人席から頭取席への書類として、政府買い上げ補償生糸7337荷口の損失計算書が綴られており、その一端を知ることができる。これによると、 処分荷口数 7337荷口 円 右に対する債権額 97,939,545.62 内訳 融通元金 91,712,500.00 未収利息 4,931,434.67 未払倉庫料 898,475.31 保存費用 389,102.72 処分費用 80,032.92 同 弁済額 35,252,616.29 内訳 処分価格 33,603,720.00 任意弁済金 1,648,896.29 差引損失額 63,686,929.33 内 損失補償請求額 25,796,892.00 補償を請求せざる損失額 36,890,037.33 という計算がおこなわれており、総額の約3分の1が対価生糸の処分によって回収され、4分の1が政府補償となり、残りは正金銀行の損失に計上されるという計算であった。案であるから、実際の経過に即してこの数字の意味を検証する必要がある。 このほか、『帝国蚕糸組合』(昭和6年)は同組合の活動記録となる報告書などが綴られており、『焼失生糸貸金』(大正13年5月)は、関東大震災にともなう火災によって焼失した生糸を担保とした売込問屋に対する貸付の回収にかかわる書類である。それによると、震災前日の大正12年8月31日現在で横浜本店での生糸担保融通額は、別約貸越13口9,268,271円33銭、為替当座貸6口5,580,525円78銭の合計1485万円ほどで、これらの貸付の担保となっていた生糸が震火災で焼失したことから、この貸金の整理の過程がこの資料から追跡することができる。震災期の生糸取引を知る手がかりともなり、関係銀行間の利害調整などの記録も挟み込まれている。また、『日本蚕糸統制会社』『日本蚕糸製造株式会社』『日本蚕糸製造株式会社(共同融資)』(昭和16〜18)年は、これらの会社の設立趣意書、事業内容に関する報告、役員会等の議事録などを収録したものである。統制会社の記録であり、公文書館などに収録されている閉鎖機関整理委員会関係の資料と突き合わせて統制期の生糸取引などを知る手がかりとなるであろう。 3.岸資料(2) 第3の資料群は第2期に公開されている岸資料(1)の後続の資料である。保管場所や整理の形式などに差異があり、後続の資料であるかどうか必ずしも明確ではなかったために公開が遅れたが、関連するものとして同一カテゴリーに分類することにしたものである。 内容的には、「市況」や「募債」など事項別に関連する情報などが各種の書類から抜き出されて項目ごとに袋に詰めて整理されたという意味では、岸資料(1)と同じである。ただし、これも同様にどのような資料から抜き取られたものか、あるいは複製されたものかは判明しない。早い時期からの資料も含まれているために、正金銀行史の資料としては貴重な内容を含んでいる。 特に興味深いのは、第一次大戦前後からの、鈴木商店、久原商事などの取引先貿易商社に関する資料群である。得意先として取り上げられているのは、株式会社安部幸兵衛商店、久原商事株式会社、増田貿易株式会社、茂木合名会社、日棉、鈴木商店、湯浅貿易株式会社、伊藤忠商事株式会社、合資会社高田商會、三井物産株式会社、原合名会社、三菱商事株式会社(日本生糸株式会社)、臼井洋行、江商株式会社、岩井商店、浅野物産株式会社、兼松商店、小寺洋行、大倉商事株式会社などであり、第一次大戦期から昭和恐慌期にかけて、破綻した企業も含めて有力企業をほとんどカバーしている。 そこでは、たとえば鈴木商店との取引おいてどのくらいの貸出限度額が設定されていたか、その根拠はどのようなものか、担保品として何が提供されていたのかなどが判明する資料が各社ごとにまとめられている。鈴木商店については、大正11年末の「株式会社鈴木商店試算表」と題する貸借対照表も見ることができるなど、貴重な資料群である。それによると、この時期の鈴木商店は、差引払込資本金5000万円に対して、銀行勘定と支払手形を合わせて1億円近い債務を負っているという状態であった。今後の総合的な研究のきっかけになるのではと期待している。 株式会社鈴木商店資産表 大正11年12月31日現在 円
4.支店来翰 第4のカテゴリーとして、今回の公開では最も分量が多いのが、「支店来翰」と題するものである。この資料は第三期および第五期に収録されている「支店景況報告」等が支店からの発信情報であるのに対して、各本支店ごとに受け取った報告、書簡等の文書を綴ったものというのが基本的な性格となる。 このうち、『総務部来信 大正6年上半季』は、他の資料とは離れてぽつんと残っているものである。第1期で公開した「総務部要録」が大正6年下半期から始まっているのに対して、その直前の同年上半期をカバーするもので、内容的には「総務部要録」の最初におくべきものといってもよいが、形式的には「来翰」綴りであるので、ここに分類されている。大戦中の正金の動向、たとえば仏国外債の購入などにかかわる契約などのほか、ニューヨーク、ボンベイ、倫敦などからの電信等の連絡書類となっている。 本店来翰が系統的に残るのは、大正15年以降で、頭取席あての横浜本店支配人席からの預金の受け払い・期末残高の報告、信用状の発行状況などの報告類も含まれている。大正15年上期分には、「大正一四年下期ニ於テ本店ノ取扱ヘル米国向生糸手形ニ関スル信用状ニ就テ」と題する調査報告書が綴られており、そこでは鈴木商店を名宛人とする信用状のうち32%が「二、三流銀行分ナルハ注意スベキ」との指摘が見られる。あるいは信用状により振り出された米国向け生糸手形で正金銀行が買い持ちしているものうち、ニューヨーク市場で直ちに割引しうる「確実ナル融通性ヲ備ヘタルモノ」は金額比で36%にすぎないこと、また信用状発行銀行のうちで「二、三流ニ属ス」ものにはニューヨーク市場で八分の三以上の割引率の上乗せ(プレミアム)が必要となるなどの実情が報告されており、興味深い。 同様の報告は半期毎に作成されているようであるが、このほか昭和四年の綴りには、「東海道筋、群馬県下、信州及び東北各方面製糸家現況調査報告書」と題するかなり長文の報告書があり、生糸貿易に関して正金銀行が極めて高い関心を持ってその動向を注視していたことを示唆している。 昭和4年10月25日には、前日のニューヨーク株式市場大暴落にかかわる第一報が電信で送られていたことも確認できる。その内容は、すでに紹介したことのあるラモントの談話を含むもので、「市場の暴落は鎮静化に向かっており、暴落はファンダメンタルなものではない」というよく知られたものである。 大阪支店の来翰では、本店とは対照的に綿紡績関係の情報が豊富となり、綿花買い付けにかかわる資金需要予測や信用取引の状況に関する報告類、個別の取引先との間で生じた債権債務関係の滞りの処理などに関する具体的な報告等が含まれている。 次いで、支店来信12に始まる「本店来信」は、上述の「本店来翰」とは文書の外観も異なっているが、内容的には、「本店来翰」が頭取席宛の書類であったのに対して、「本店来信」とされている書類は、基本的にはこれとは逆向きの頭取席の各課(内国課、為替課、調査課等々)から本店支配人宛に出された書類を綴ったもののようである。昭和5年初めの書類は1月9日付頭取席内国課から「本店および東京支店支配人宛」で内容は、「三井物産株式会社ニ対スル貴店信用取引限度変更ノ件」と題する通知であった。 このほか各支店の来翰・来信綴りについては、必ずしも形式が整っていないものもあり、すでに公開している各種の支店資料との突き合わせも必要と考えられるが、各地の本支店間往復文書だけでなく、臨時の調査報告書、月報等の定期報告などが混在している。たとえば昭和初期のボンベイ支店を例にとると、ここでは月報が別綴りとなっており、これに対して『孟買支店 来信』(大正14年〜昭和6年)には、「綿糸関税引き上げの顛末」昭和2年10月、「準備銀行案今議会の成り行き如何」昭和3年2月、というようなトピックを取りあげた報告書が綴り混まれている。また、「独逸時報」という副題となっているハンブルグ支店の綴りは、「独逸ニ於ケル産業資金ノ問題」という「時報第9号」の記事から始まり、以後各号ともその時々に選ばれたテーマ利報告書となっている。ここから支店のオペレーションの日常は判明しないが、同支店に勤務する行員の目を通したドイツ経済の観察記録としては貴重な同時代のドキュメントとなっている。 以上のように、これらの支店来信と分類された資料群は、昭和初期から戦時下にかけての横浜正金銀行の営業活動の実態と、正金銀行の窓口から見た各地の経済状態などに関する資料の無尽蔵の宝庫である。もっともそこから研究関心に即した資料を探索・発掘することは必ずしも容易ではないということもできる。 以上が本マイクロフィルム資料第六期に含まれる資料の全体像である。本格的な資料整理が始まってすでに8年以上が経過し、マイクロフィルムの撮影が開始されて7年目に入り、700箱という段ボール箱の山の整理も終わっている。前期の解題で、「近いうちにより見通しのよい資料の見取り図を紹介したいと考えている」と書いたこともあるため、現時点で判明している横浜正金銀行資料の全体像を、本会題の最後に簡単に紹介しておこう。 振り返ってみると、2000年春に資料の寄贈を受けて予備調査を開始し、2003年から本格的な整理とマイクロフィルム化を進めてきた資料整理作業であるが、作業5年余りを経て2007年秋から翌08年夏にかけての最終の分類整理作業でようやく資料の全容が明らかになった。重複等を除いて整理済の資料タイトル数は、合計8542となった(この中には書籍や写真など未整理のままと下ものも含まれる)。これらの資料は暫定的に、@本店関係資料、A支店関係資料、B対外投資・対外協定資料、C調査関係資料、D相場表・回覧電信、E正金銀行史編纂資料、F東京銀行関係資料などに分類され、別表のような部類項目に即して分類されている(整理作業の進行の都合上、これらの分類とマイクロフイルムの公開順序は対応していない)。 このうち、すでに公開されているのは、今回の公開分を含めて3881点である。未公開の資料の中には、相場表や年史編纂関係の資料など資料的な価値という面から公開の必要が少ないと考えられるもの、あるいは人事関係の資料など個人情報保護の視点から公開が望ましくないものなどもあるから、それらを除くとおおよそ半分ほどが公開を終えたということになる。未公開分では大きな固まりとなっているのは、為替関係、本店の各部に関する資料、アジア支店関係の資料、調査部関係の資料などである。日暮れて道半ばということかもしれないが、われわれに残された課題は、引き続き順次マイクロフィルム版を作成して公開することに絞られることになった。 それが実現するためには、まだ時間が必要であり、そのための資金を確保していかなければならないなど、越えるべきハードルは少なくない。しかし、少しずつでも皆さんの関心の広がりに応えられるように努めたいと思う。公開された資料を利用して新しい研究成果が出てくれば、きっと元気が出るに違いないとも思う。その意味で、この資料ができるだけ多くの人たちの関心を呼び起こし、研究が活発になってくれればと祈っている。 ここまでくるうえでは多くの人たちの助力を仰いできた。そうした人たちの助力に心から感謝したい。とくに5年余りの整理作業を行う上では、一橋大学との研究協力の中で確保された広いスペースがどれほど進捗に貢献したかはかりしれないものがある。特に記して謝意を表しておきたい。 別表 横浜正金銀行史関係資料
2009年7月4日記 |