横浜正金銀行史資料マイクロフィルム
第二期解題
東京大学 武田晴人 マイクロフィルム版横浜正金銀行史資料の第二期は、ロンドン・ニューヨークの両支店を中軸とした欧米関係の資料を主として支店関係の資料の収録する。上海・大連・ボンベイなどのアジア関係の支店資料は、量的に大部であるため今回は見送られた。 第1期の資料解題でも明らかにしたように、現存する横浜正金銀行史資料は、昭和初期から戦時期にかけての資料が圧倒的に多く、今次の資料もその性格を強く反映している。資料のタイトルなどから知りうる限りは、震災後数年のうちに編成されはじめた一連の資料が多く、欧米支店についても、創業期から第一次大戦期までの資料は数少ない。 1 ロンドン支店資料 比較的まとまった資料となる第一のグループは、「倫敦」と支店名が資料タイトルに表記されている一連の資料である。「倫敦支店要録」「倫敦支店」「倫敦来翰」「倫敦支店 来信」などのタイトルのある資料群がそれであるが、いずれも大正15年ないし昭和2年から昭和14ないし16年までの時期の資料である。 次に、具体的な記事を昭和4年の冒頭の記事に即してみると、同年の第1号、1月5日付けでは、次のような記事が見られる。 倫敦支店要録 第壱号 昭和四年一月五日 上海、孟買、紐育支店へ 二日発 紐育支店ヨリ 二日発三日着 つまり、ニューヨーク支店との間の資金繰り決済に関する往復など、日常的なオペレーションに関わる重要な連絡、各地の市況、資金ポジションなどについて、支店間の、あるいは、記載例にはないが頭取席との往復が日付順にまとめられている。 2 ニューヨーク支店資料 上記のロンドン支店資料と対をなすのが、次のグループのニューヨーク支店資料である。資料の構成は、ロンドン支店と同じく「ニューヨーク支店要録」「紐育支店」「紐育来翰」「ニーヨーク支店 来電(来信)」となっている。 「倫敦支店要録」では、昭和4年10月26日の第43号にニューヨーク支店からの情報として次のような記事がある。 世界大恐慌の引き金となったといわれる24日の大暴落の2日後の情報として、市場が平静を取り戻しているという趣旨となっている。 ところが、これに関連して、11月2日の第44号では、 と頭取席への報告が送られたことが知られる。これによると、ロンドン市場ではニューヨーク市場の大暴落を受けて、4日後には資金が環流し始め資金需給が軟化しつつあることがすでに観察されている。つまり、ニューヨークからの資金引き上げが株価の暴落の直後から発生し、それがロンドン金融市場の緩和をもたらしていた。 頭取席へ 十月廿四日 暴落直後に有力銀行家たちが会合して市場支持を決議したという、この記事の伝える話はよく知られていることだろうが、それが暴落の第一報であった。株価の暴落はファンダメンタルな状況に基づくものではなく、技術的なものであり、問題はないというわけである。 同じ250号に、前述の「倫敦支店要録」記載された「紐育支店より」の電信文が25日付で、頭取席とロンドン支店に当てて発送されたことが示されている。 次の251号に(11月4日)記載されている記事は、次のようなものとなる。 頭取席へ 十月三十一日 株式相場暴落取引高七、二〇〇、〇〇〇株人気着ニテCheerfulナルモ今後ノ成行来週ナラデハ予想六ヶ敷乍去今日ノ市場ハBanking
Pool 準備銀行其ノ他ノ支持ニ依リ鳴物入リテ成立セル処多ク高値ニテ売物現ハル可ク一般経済界当分不景気予想セラル 週報 十一月四日 月、火曜日投物殺到、市場混沌恐慌状態ニ陥リタルガ資本筋ノ買出動弗々起リ相場落付キ水曜日一層ノ買気ニ相場上昇木曜日正午開場暴乱30
points 漸クノ落付ノ観アリ 乍去今後相当動揺アルベク前途予測困難・・・ これによると、市況の持ち直しの気配に対して、ニューヨーク支店では次週にならないと先行きは不透明と31日には報告し、全般的に景気が後退局面にあるとの判断を示している。そして、翌週の11月4日の週報では株式市場がさらに暴落を開始し、投げ売りが殺到して恐慌状態にあると報じている。 これらの情報から考えると、ロンドン支店では10月24日の大暴落の直後から、ニューヨークからの楽観的な情勢判断の知らせにもかかわらず、警戒感を強めており、ニューヨーク支店でも1週間後くらいから情勢判断を改め、頭取席に警告を送っていたことが判明する。 このころ、日本の国内では浜口内閣の大蔵大臣井上準之助を中心に金本位制への復帰を目指す政策が推進されていた。ニューヨーク株式市場の大暴落後、井上大蔵大臣は、金本位制への復帰が日本経済の将来の発展には必要であることを強調して政策転換の必要を少しも認めなかったし、この暴落に対応して、ニューヨーク連邦銀行をはじめとして欧米の中央銀行が金利を引き下げているのを「金解禁上の一大楽観材料」と指摘していた。これが冷静な経済情勢分析の結果であったのか、政治的なポーズであったのかを知ることはできないが、横浜正金銀行の中を流れているニューヨーク発の情報は、「危険な兆候」が広がっていることを示していた。ニューヨーク発の情報が日本銀行や大蔵省を介して井上大蔵大臣の元に届いた可能性は高いだろう。今のところ、その流れを追跡する準備はなく、それは解題の役割でもないであろうから、こうした形で、一連の欧米支店の資料群が利用できるかも知れないというにとどめておこう。 3 日本興業銀行・朝鮮銀行・日仏銀行関係資料 次のグループは、主としてロンドン支店が担当した海外業務のうち、日本興業銀行の外債発行に関わる代理店業務、朝鮮銀行のロンドンでの資金運用、日仏銀行の設立に関わる対外交渉に関する資料である。まとまった資料としては点数は少なく、これらの銀行に関する資料が他の資料の綴りに混在する可能性は否定できないことはいうまでもない。 日本興業銀行関係では、中国向けの借款供与に関する資料群が別にあり、これらは分量の関係で今回のマイクフィルム化を見送った。いずれ、次の機会に中国などアジア関係の支店資料とともに、借款関係の資料を整理していきたいと考えている。 興銀関係で収録した資料のうち1点は、日露戦争期からの日本興業銀行の社債発行に関する業務関係の書類綴りであり、他の日本興業銀行資料は昭和15-16年頃のものとなっている。明治末の資料が少ないだけにこの資料は貴重かも知れない。同じように朝鮮銀行についても、代理店業務開始の初期の資料を含んでいる。 点数は2点にすぎないが、重要な資料と考えられるのが日仏銀行設立に関わる資料綴りで、ここには設立案からはじまって、その後の経過に即した日本側の対応などを知りうる文書がまとめられているようである。専門的な検討をできる能力はないが、すでに大蔵省の資料などを用いた先行研究もあるようだから、それらと対照して検討すべきであろう。 4 日本銀行代理店業務関係資料 次の資料グループは、日本銀行代理店業務に関するものである。 数種類の資料綴りが残されているが、ロンドンとニューヨーク両支店について、同一の資料群が、前述の要録とほぼ同じ時期について、残されておりこれをまず第一に収録した。それは、「日銀倫敦代理店」「ロンドン日銀代理店 来翰」「ロンドン日銀代理店貸借対照表」「日銀ロンドン代理店保管有価証券明細表」であり、ニューヨークについても同様に、「日銀紐育代理店」「紐育日銀代理店来翰」「日銀ニューヨーク代理店貸借対照表」「日銀ニューヨーク代理店有価証券明細表」というものである。 これらは主として日本銀行が保有する外貨公債などの取り扱い、日本政府の外債発行業務に関わる資料群で、「日銀○○代理店」および「○○日銀代理店来翰」は、日本銀行営業局から正金本店経由で、両支店に宛てて送られた業務の指示、問い合わせと回答などからなっている。 例えば、「日銀倫敦代理店」資料の最初となる、昭和2年1月11日付けの文書は、日本銀行営業局から正金銀行頭取席欧米課に宛てた「内地ニ於テ買入鎖却ニ係ル外国債証券明細表」となっており、これがロンドン支店にも回付されたことから、この綴りに残っているものと考えられる。また、来翰は、これとは逆方向の文書の流れを記録したものとなっており、ロンドン支店から外債利払いについて月次ベースの報告、資金繰りに関する報告が中心となっている。 これらの特徴は、ニューヨーク支店関係の同じグループの資料にも共通する。 次の貸借対照表と、保管有価証券は、ともに日銀代理店業務に関わる資金残高及び、保管証券の残高報告である。貸借対照表は毎週作成されたものと思われ、現存する最も古い時期はロンドン支店では大正13年1月3日となっている。英貨と仏貨とに区分してそれぞれ作成され、日本銀行本店勘定として受け入れた資金額と、これの運用目預入先などが期されている。残高表であるが、週ベースの記録であるから、詳細に追いかければ、どのような運用操作がなされていたかをフローのベースで相当程度再現することはできるであろう。記載内容を例示するために、大正13年1月3日と昭和4年1月3日の主要な項目とを対比して示しておこう。 英貨の部
ボンド未満切り捨て
この資料の表記は、原資料が会計書式に則って右側に貸方、左側に借方を表示しているものを改めている。原資料は、比較貸借対照表の形式もとっておらず、前後の比較は示されていない。また、印刷された項目のうち金額の記載のない行も削除されているが、おおよその概念を得ることはできるであろう。 時間をかけて精査したわけではないから、確定的なことは言い得ないが、在外正貨が急激に減少したとされるこの時期に、主として日本銀行資金を中心に日銀代理店として横浜正金銀行ロンドン支店が預かって運用している資金量は、1000万ポンドほどの大幅な減少を来している。そのため、政府一般会計普通勘定の定期預金、日本銀行資金普通勘定のイングランド銀行別口当座預金、ならびに横浜正金銀行別口当座預金などとが急減している。それぞれがどのような経緯で減少していったか、それはいつ頃のことであったかは、この中間の時期の貸借対照表を追うことで明らかになろう。 貸借対照表と保管関係にあるのが、「保管有価証券明細表」であり、これらは、政府資金、日銀資金などで購入された有価証券等の残高を示している。これも週ごとの報告の形式で作成され、政府所有分と日本銀行保有分とに分離して記載される。記載内容は、証券の種別、券面、枚数、額面、価額である。 以上の日本銀行代理店業務に関する資料群は、これと対比して検討することのできる資料群が、日本銀行金融研究所に残されているはずである。同研究所のアーカイブでは、日本銀行が作成し、あるいは受け取り保管してきた歴史的な文書の整理、公開を進めており、その資料が研究者に広く利用できるようになると、この正金銀行資料と対照しながら立体的な歴史研究が大きく進むことになるのではと期待される。 それはともかく、日本銀行代理店としての正金銀行の業務に関する資料は、このほか明治期に関わる「日本銀行倫敦代理店約定書」なども含んでいることを付け加えておこう。 日銀代理店関係資料としてもう一つ大きなまとまりをもつのが、「日銀代理店事務」とタイトルが付された綴り類である。これらは、横浜正金銀行から日本銀行営業局等へ送られた文書類の綴りで、日常的なオペレーションの報告などが中心となっている。資料の性格から見ると、第一期にマイクロフィルム化した資料の中にある「日本銀行営業局」などからの文書綴りと対をなし、両者で補い合って代理店業務を中心とした横浜正金銀行の役割、政府・日本銀行の考え方などを知りうる資料となると思われる。 なお、この一連の資料は、主として欧米支店の代理店業務に関わるものであるが、このほかに、主として戦時経済期にかかる頃の資料で、上海、青島、天津、香港などの中国・アジア支店に置ける代理店業務の綴りも残されており、これらはアジア関係の支店資料としてまとめるよりも代理店業務として一括する方が便宜と判断して、今回の資料集に収録した。 5 国際決済銀行 欧米支店の活動記録の最後に、国際決済銀行関係書類をまとめた。昭和5年1月に、第1次世界大戦の賠償問題の解決を企図したヤング案の実施機関として設立されることになった国際決済銀行の設立計画について、設立のほぼ一年前の4年2月からの交渉の経緯等がこれらの資料によって明らかにすることができるとともに、その後の同行と日本との関わり、そこで横浜正金銀行が果たした役割などが分析されることが期待される。 6 正貨問題関係資料 次の大きな資料グループは、正貨の現送に関わる資料である。在外正貨問題は日本の金本位制の特徴を表すものといわれてきたが、その在外正貨の具体的なあり方は、前述の日本銀行代理店業務の関係資料を読み解くことで、時期的な限定はあるものの、ある程度知ることができる。 これに対して、ここに収録した資料は、金貨等の正貨の現送に主として関わる資料で、点数は少ないが、明治末から大正初めの現送に関する資料、第一次大戦後、大正11年前後の正貨払い下げの資料なども含まれている。後者では、横浜正金銀行が月次の報告として日本銀行に対して「○月中本行取扱為替ニ関スル調査書」を提出し、資金ポジションなどを明らかにしていたことも分かる。これらの資料は、われわれが関心を持つ、金本位制停止、再建金本位制移行期の正貨問題を知るという点では、かなり限界があることはいうまでもないが、その時々の正金銀行の判断・意見等も読み取ることのできるものである。 正貨現送関係の資料群の圧倒的な部分は、1930年代に入って、金本位制が機能を停止し世界経済がブロック化への歩みを進めた時期のものとなっている。この時期には、脆弱な円ブロックの対外決済能力を補うため、正金銀行は各地の支店を通して正貨の吸収に努め、また決済のための現送に携わった。その具体的な活動の記録が、「第○次正貨現送関係書類(日銀勘定)」という形で、現送の度毎に作成され綴りとして残された。これらがこの資料群の中心ということになる。資料の綴りの中には、現送の手続き関係の資料と調査報告や意見書等が混在し、必ずしも整理された状態で資料が綴じられいてるわけではないが、ブロック経済下の対外決済がどのような形で行われたのかを明らかにするためには、これらの資料は重要な手かがりとなるだろう。 7 岸資料 第一期のマイクロフィルム資料解題でもふれたように、横浜正金銀行資料の中で、「岸資料」と呼ばれるのは、昭和13年1月の重役会決議に基づいて正金銀行史の編纂が行われることになったときに、その編纂主任となった岸(駿)調査課次長が収集した資料であり、これを終戦後に東京銀行が正金銀行史の編纂を開始したときに取り出して整理した際に「岸資料」と命名されたと説明されている。定款をはじめとして横浜正金銀行の本店を中心とした業務内容についての資料群は、すでに第一期に収録してあるため、第二期の本誌領収ではマイクロ化の作業が残っていた支店毎にまとめられた資料を収録した。 支店毎の重要な事項を抜き書きしてタイプし、これをガリ版刷りでざら紙に印刷したもので、各支店毎に主要な項目のリストも付されているから、使いやすい資料である。 例えば、ロンドン支店については、最初の項目に明治23年に「倫敦における借用金契約及預金準備」というタイトルを付した資料が収集されており、その後についても明治期についての点数は必ずしも多くはないが、全体として資料が少ない時期だけに貴重なものである。この資料から見ると、昭和13年という時点では現在われわれが見ることのできない資料が残っていたと考えられ、その意味では残念でもある。 ロンドン支店関係の記事は、大正8年から比較的点数が多くなり、同年についてみると、戦後金繰繁忙対策、英米クロス下落見越対策、英米向買持過多対策というようなタイトルを付けて、複数の資料が抜き書きされている。これらのタイトルは、いずれも「岸資料」の作成者が付けたものと判断され、抜き出された資料の原文には表題のないものも多い。 同様の資料の抜き書きは、ロンドン金融市場がヨーロッパ金融恐慌の影響によって閉鎖され、国際金本位制が機能停止に陥った昭和6年秋には、「倫敦の磅売持方針」「倫敦の金繰状況」というタイトルで行われている。これらのことから、岸資料は、銀行史編纂の目的で文書を読みながら、その時代時代の重要なテーマに即して編纂者である岸氏が編成した二次資料的な性格を持つということになろう。 8 支店報告 支店からの報告書類には、これまで欧米支店を中心に紹介してきたような、要録類、往復書簡・電信とうの資料の他に、支店毎の財務などの計数の報告書、そして、月報・週報のような形で編纂された史料群がある。第二期マイクロフィルム資料では、このうち前者について、タイトル等から判断して比較的まとまりのある昭和戦前期の分だけを収録することにした。未だ正確な全体像を支店関係の資料についてはつかみ得ていないから、今後、この前後の支店毎の計数の報告等を明らかにしうる資料が発見されるかも知れないことをあらかじめ断っておきたい。 さて、ここに収録されているのは、昭和5年以降の「(各支店・期末勘定書)
[支店名]」の形式で半期毎に
まとめられた資料である。昭和5年分からも分かるようにこの年の報告は全支店を含んでおらず、なぜ、どのような経緯でこれらの支店分だけが残っているのか判明しないが、時代を追うにつれてカバリッジはよくなっている。各支店の勘定書の内容は、基本的には残高ベースの計数であり、これもロンドン支店の昭和6年12月末報告を例にとって、記載内容を示すと、40種類以上の残高表、内訳表などを含んでいる。 主な項目は、 1.公債利子収入内訳高 などとなっている。これらの帳票の形式は印刷されたものが主であり、毎年各支店で共通に作成されていたものも多いと考えられる。もちろん、上記のロンドン支店は多様な業務を並行して行っている海外最大の支店の一つであるから、それに固有の勘定項目もあり、他の支店の報告はこれよりもはるかに簡素であることはいうまでもない。いずれにしても、こうした計数から、支店業務の実態を相当程度詳しく知ることができるということになる。今後、この資料の欠を補うような資料を見出すことに努めたい。 以上が本マイクロフィルム資料第二期に含まれる資料の全体像である。第一期の資料解題でも述べたように、貴重な企業資料でもあり、また、横浜正金銀行の性格からして、重要な政策文書でもある。収録にあったっては、個人のプライバシーなどに配慮すべき点は配慮し、歴史的な事実として公開しうる範囲に限定して、研究目的の学術資料として公開するという原則をまもることを指針とした。これは、貴重な資料を寄贈しマイクロフィルム資料として公開することを認めてくださった原所蔵者である東京三菱銀行の強い要請でもある。このような学術研究にとってかけがえのない資料を公開するためには、利用する研究者の側も遵守すべきルールがあることを、私たちは片時も忘れるわけにはいかない。そのことに特に注意を喚起し、また、そうした明確なルールに基づいて資料が利用されることによって、今後一層の資料の保存・公開が可能になるということを、本資料の利用者の皆さんに特にお願いして、解題の筆を擱くことにしたい。
2004年6月10日記 |