横浜正金銀行資料 解題

東京大学大学院経済学研究科

教授 武田 晴人

 

横浜正金銀行資料の由来

 第二次世界大戦前の日本において、最大の外国為替銀行であり、国策の遂行に大きな役割を果たし続けた特殊銀行である横浜正金銀行について、貴重な一次資料がかなりの程度保存されていることは、この分野に関心のある研究者のなかでは周知のことであった。

 たとえば、財団法人日本経営史研究所の企画のもとに、加藤俊彦・山口和雄両教授が中心となって10年あまりの研究成果をまとめた『両大戦間期の横浜正金銀行』(日本経営史研究所、1988)によれば、当時編纂中であった『横浜正金銀行全史』全6巻のために、所蔵資料の一部をみることができなかったこと、それでも膨大な所蔵資料が、とくに両大戦間期を中心に残っていたことが明らかにされている。この時に見ることのできなかった資料を含めて、2000年春に東京大学に横浜正金銀行関係資料が寄贈されることになり、このたび、株式会社丸善の協力の下に、その一割ほどがマイクロフィルム化されて、研究者に広く利用できることになった。資料の移管にご尽力いただいた東京三菱銀行、東洋文化研究所などの関係者のご尽力に心から感謝したい。

 東京大学に移管の話が持ち上がるまで、この資料は、その一部を除いて廃棄の準備が進められていた。その経緯は、資料の選別に関わった東京銀行の山田寿雄氏の「敬礼! 横浜正金銀行資料始末記」に詳しいが、横浜正金銀行資料(以下、正金資料と略す)が保存されていた東京三菱銀行のもえぎ野倉庫で656箱の資料を、5棹のキャビネットに入るところまで絞り込んで、この選別に漏れた600箱ほどは廃棄やむなしと決めたのが1999年の秋のこととされている。

 その後、2000年に入ってこの廃棄予定の情報が東京大学東洋文化研究所を経由して私たちのところに届いた。この資料について、東洋文化研究所と東京三菱銀行との接点が具体的にどのようなかたちで生まれたかは、私も詳しいことは知らない。こちらに届いた情報は、「かなり大量の資料についての寄贈の打診があったが、東洋文化研究所ではとても難しいので、経済学部では関心があるか」というような話であったように思う。

 実は、東洋文化研究所と東京銀行とは、横浜正金銀行時代にさかのぼる緊密な協力関係があり、そうした背景があって1950年代の半ばに同研究所は、旧正金銀行調査部が収集していた膨大な図書・統計資料類の寄贈を受けていた。この資料は、折に触れて整理を試みられたもののあまりはかばかしくなく、同研究所からその資料の整理について経済学部が相談を受け時には、すでに寄贈から40年近くが経過していた。1995年頃のことと思うが、同資料のうちアジアなど開発途上国関係は東洋文化研究所が、日本及び欧米関係の図書資料については経済学部が整理することとなって、およそ3年くらいの時間をかけて、年来の未整理資料の滞貨を一掃した。その直後に正金資料の寄贈の話が持ち上がったことになる。図書資料についても、さすがに最大の為替銀行であっただけに欧米諸国の統計書などが20世紀の初頭からそろっているなど、経済学部図書館の資料室が所蔵していた外国資料類の欠を補い、充実させるのに大いに役に立ったのだが、今回の話は、そうした刊行物ではなく、経営の一次資料ということであり、冒頭に紹介した正金資料のいきさつを知っていた私にとっては、どのような困難があっても保存に最大限の努力を傾けるべきものと思われた。おそらくは、長い間の横浜正金銀行と東洋文化研究所の協力関係などが基盤となって、正金資料と私たちが出会うことができたということではないかと考えている。

 正直に言って、700箱近い資料を受け入れて保存するための場所の手当も、整理についての人手も、そしてもっと切実には、もえぎ野倉庫から輸送するための費用の捻出にも、どれも全くめどの立たないままのスタートだった。ぼやぼやしていると貴重な資料が灰になってしまうかも知れないというのが、その時に東洋文化研究所で窓口となって下さった浜下武志教授や私の唯一優先して解決すべき懸念であり、あとは何とでもなるという、かなり無茶な決断であった。

 それはともかく、純粋に学術研究のためという目的で東大で預かりたいという当方の希望に、所蔵していた東京三菱銀行はきわめて好意的に応えてくれ、選別作業に苦労された山田さんたちには申し訳ない思いもしたが、もしいただけるのであれば、保存予定の重要資料を含めてすべていただきたいという厚かましいお願いも聞いていただいた。こうして、2000年4月に廃棄予定の資料を含めて当時もえぎ野倉庫に保管されていた正金資料が全て、東京大学経済学部経済史資料分析室に移管された。

 

横浜正金銀行資料の概要

 正金資料は、前述のように両大戦間期から戦時期にかけての資料が大半を占める。その意味では、創業期から明治年間にかけての資料については、正金資料には限界がある。また、東京銀行時代に行われた資料整理に際して作成された目録(以下、「資料保管目録」と称す)に記録されている各期の決算報告書類は、移管資料には含まれていなかった。資料タイトルから見ると、おそらくは期末の決算時に作成されたと思われる帳簿類であり、それらは少なくとも大正初年からは各期末ごとに、貸借対照表、損益勘定内訳明細表(利益金之部)、同(損失金之部)、財産目録表、半季利益金割合報告表などを含む一連の資料であるが、これらは失われたようである。

 移管資料には、上記の資料保管目録が、不鮮明なコピー版であったが付されていた。この目録によると、保管されていた正金資料は、その点数からみると、1万点を越えるものであった。このうち、上記の決算関係書類730点ほどのほか200点ほどが移管後に行った資料原本との点検照合によって所在を確認できなくなっていた。他方で、資料目録にない資料も180点ほど見つかり、差引9523点が、現在、保管を確認できるタイトルである。この異同は部分的には、資料保管目録の記載タイトルが不正確であるために、対応関係が確認できず追加資料として目録に加えたものがあることによると思われる。また、目録とは異なる箱に移動しているものが多数見つかり、その確認にも手間どったが、これは、前記のとおり山田氏らが保存資料を選別した際に、もとの箱から抜き取ったためのようで、それらの多くは、別の箱の中からまとまって見つかった。その意味では、決算書類を除くと、残存資料の保存という意味では、幸いなことに、散逸を免れたものが圧倒的な部分となっている。なお、この資料目録と資料の原本との照合のための第一次整理作業は、東京大学大学院経済学研究科博士課程の石川研君が、目録のデータベース化の作業は武田研究室の太田朝子さん(現・日本銀行金融経済研究所)が担当した。

 残念なことに、資料保管目録は欠陥の多いものであった。この目録は、倉庫の書棚に入っていた資料を箱詰めする際に、棚の配列順に作成したものとは想像されるものの、その保管の中で保たれていた資料の「原秩序」を反映したものではなく、また、既述の選別作業でさらに原秩序が部分的にゆがめられているため、かなり異なる種類の資料が順不同に記載されている。そのため、1万点近い資料の全体を原秩序に従って、再現整理し、その概要を示すことは容易ではない。

 これらの資料には、しばしば文書保管のための整理記号とおぼしき番号が付されていることもあり、それらを手掛かりに今後の整理を進めれば、ある程度は資料の全容をよりわかりやすく示せるのではないかと考えるが、それは現時点では断念せざるを得ない。また、今回のマイクロフィルム作成作業の準備のため、撮影対象となる重要資料をピックアップする際に、相当数の同一資料が本資料の中には含まれていることも分かった。そのため、たとえば「昭和×年下半期決算資料2」というような記載があっても、それは何冊かの分冊に分かれて昭和×年下期の決算資料がファイリングされていることを必ずしも意味していない。場合によっては、この番号は、同一資料が重複して存在すること、これを行内に配布するときに機密保持のための管理の目的で付された番号という場合も、かなりあることがわかった。ある資料では、同一タイトルの重複資料が10点近くも見つかっている。つまり、こうしたかたちで、相当数の同一資料がこの中には含まれている可能性が高いということになる。そして、この事実は、正金資料が、明確な方針の下に資料の収集と保管が行われ整理された結果というよりは、重要と思われる資料類が残されるままに集まったものという側面が強いことを示唆している。そうでなければ、同一資料を何点も残す必要はないはずだからである。そうしたことも、資料保管目録の系統性のなさ、資料全体の秩序のなさに影響を与えているかも知れない。前述の山田氏は、正金資料を「相当な玉石混淆」と評価し、統一的な収集基準が一部を除いて感じられず、「首をかしげるもの」も含まれていたと述べているが、これには、そんな背景があると思われる。

 さて、正金資料をやや強引に、現時点での「腰だめ状態」で大きく分類して概要を説明すると、以下のようになる。

 まず第1に重要なものは、本店の営業活動、経営方針の決定などに関わったと思われる資料群であろう。取締役会の記録を編纂した「取締役会決議録、重要事項報告録抜粋」「株主総会決議録」「支店長会議録」などがこれにあたる。また、「頭取席要録」は本店頭取席にどのような情報が集まり、それに従ってどのような指示が出されたかを知りうる基礎資料となる。

 第2は計数関係の資料であり、営業報告書、行内限りの決算資料、その準備のために各支店などから収集、作成された資料群がある。これには、「監査役要録」など決算時の行内でのチェックを記録した資料も残されている。

 第3は、大蔵省や日本銀行などの官庁などとの往復文書であり、政策金融機関としての横浜正金銀行の活動を知る上では、きわめて貴重な資料群となる。「諸願伺届控」「指令」や各官庁などの名前が冠された資料群がこれにあたる。

 第4は、本店調査部門などが各種の調査書類、あるいは本店から一般的に発信された情報を記録した文書などが含まれる。代表的なものは「通達」「行報」「通報」などのほか「調査報告」「調査資料」「資料部特報」などの資料群がここに含まれている。また、為替相場などの動向を知らせるために作成された情報なども大量に残されており、その分類には迷うところであるが、とりあえずこのカテゴリーに含めておきたい。

 第5は、地域別の資料であり、支店関係の資料であるが、この分野は多岐にわたる。とりあえず、中国を中心とした東洋の支店関係と、英米などの先進国とをサブカテゴリーとして分けておく必要があろう。このうち前者については、通常の為替取引などの業務に係わるものだけでなく、漢冶萍媒鉄公司に対する借款、中国向けの列国借款団関係の資料などの重要資料が含まれる。また、先進国関係では在外正貨払い下げなどに関わる資料があり、ロンドン支店の日銀代理店業務など、これまで十分に解明されていない問題に関する資料群が含まれている。

 第6は、正金資料から生まれた資料群ともいうべきもので、何度かにわたる銀行史作成作業の中で蓄積された「正金銀行史編纂資料」とでも呼ぶべき二次資料がある。この中には編纂の事務的な記録もあるが、一次資料を欠いている時期についての貴重な資料群も残されているものと考えられる。

 まだ、漠然とした印象ではあるが、以上が正金資料の概要である。

 

本マイクロ資料に収録した資料

 本資料集では、整理の都合などもあって、上記の6つの分類のなかから、1から4までのカテゴリーに含まれる資料を中心に、これを7つのグループに分けて資料を編纂している。このグルーピングは、これまでの説明からも明らかなように、全体の資料の分析に基づいたものではなく、タイトルなど表面的な手がかりに依拠した、あくまでも暫定的なものである。以下、その7つのグループについて、それぞれ資料の要点・特徴を簡潔に紹介することとしたい。

 

 GroupTは主として「重役会」と称して、本店の役員会など主要な会議録などの資料を収録している。

 まず、最初に収録したのは「自明治十三年至大正十二年 取締役会決議録、重要事項抜粋」第一輯〜第五輯である。この資料は、大正13年に、「本集ハ人事課及ヒ庶務課員ノ執務上ノ参考ニ資センカ為メニ本行創立以来ノ取締役会決議録及ヒ重要事項報告録ノ内ヨリ人事及ヒ庶務ニ関係アル事項ヲ簡抜シ類衆編纂シタルモノニシテ」と説明されている。基礎となっている「取締役会決議録」「重要事項報告」が大正12年以前については、残されていないため、本資料が創業期から関東大震災の時期までの重役会決議を記録にとどめる基本資料ということになる。

 全体に8編に分かれ、第一編本支店及ビ出張所関係事項、第二編資本金及ビ株主関係事項、第三編重役関係事項、第四編書記及ビ雇関係事項、第五編土木及ビ建築関係事項、第六編諸規則関係事項、第七編官庁関係事項、第八編本支店経費関係事項に分かれて編纂されている。これによって、例えば、明治13年3月16日の「常会」(定例の取締役会)で大阪と神戸に支店または出張所の開設が決定され、その具体的な手続きは小泉信吉副頭取が関西に行って当地の衆議によって決めることとなり、ついで53日の常会で神戸支店を同月中に設置することが決定されたというような形で経営の進展が跡づけられる。

 これに続く、「取締役会決決議録、重要事項報告録」大正13〜昭和3年は、同様の形式で各年ごとの取締役会決議録等から編纂されたものである。

 次の「重役会記録」「重役会備忘録」は、その添付された番号が連続していることからも明らかなように、大正113月から昭和207月までの役員会資料で、タイトルの変更はあるものの、一連の資料である。本資料には、出席者の記述などがないため、正式の取締役会議事録ではないが、報告類を含めてかなり詳細な議案の記録が残っている。

 本資料の性格を知る手掛かりは、その記述が終了する昭和207月の最後の部分に、「取締役会記録簡素化ノ件」が記載されているところから得られる。それによると、当時、取締役会に関する記録は4種類作成されていたこと、その4種類とは、A取締役会決議及報告、B取締役会決議録、C取締役会重要報告、D取締役会備忘録であった。このうち、A は「各部提出決議案並ニ諸報告ノ原案ヲ其儘一括綴合セ保管」したもの、Bは定款に定めた決議書、Dは「決議及報告全文ヲ原案ヨリ書写」したもの、Cは報告事項中の重要事項の要点を記したものと説明されている。そして、この記録によれば、この時に、この4種類の記録に対して、簡素化のため、Aを2通作成し、その1つに記名捺印して正式の決議録とし、他の1通をDの備忘録に代えて「安全ナル地域ニ疎開保管」すること、そのため、会議へ提出する書類にはこれ以後、「案」の字を付さないことになったことが明記されている。

 上記4つの記録が何時から作られているかは正確なことは判明しないが、本来、正式な記録として残されるはずのB系列の資料「決議録」は、正金銀行資料としては、昭和1920年などが一部分残っているに過ぎずない。そのため、本マイクロフイルム資料に収録し得たのは、この時以降の簡素化された記録「取締役会決議録並ニ報告」、昭和16年以降のA系列の資料「取締役会決議及報告原案」ということになる。

 次の資料は株主総会に関する資料や、支店長会議関係の資料である。前者は説明の必要はないであろうが、この分類に含まれる「株主総会における頭取演説」は、内外の経済情勢から説きおこして経営の全般を株主に説明したものであり、『横浜正金銀行全史』がその本編の記述の基礎資料とした資料の一つである。本資料は、活版で印刷されおり、株主に広く頒布されたもののようである。後者については、「東洋支店長会議録」がよく知られており、明治41-42年の第1-2回の会議録などは既に資料として活用されている。しかし、残存の資料に即してみる限り、こうした会議が継続的、定期的に開催されたと考えられる資料に乏しく、東洋支店長会議も相当間隔が開いた不定期な開催となっていたと考えられる。類似の会議と考えられるもの−支店長会議、支配人会議、支配人打合会など−も可能な限り拾い集め、ここに収録している。

 

 次のGroupUは、「要録」と称する資料群である。大正6年7月から現存しており、それ以前については、今のところ関連づけられる資料を見いだしていないが、現存のもっとも古い日付は73日、第139号の「総務部要録」である。この番号は後の運用を見る限り、毎年更新されて第1号からとされている。従って、少なくとも6年中は作成されていたことが確実である。その後、この資料は「総務課要録」となったあと、大正101210日から「頭取席要録」と改称された。戦時経済期にかけてこの資料の年々のページ数が増加しており、昭和戦前期の正金銀行の活動を知りうる上では非常に大きな情報源となろう。

 具体的な記載内容は、各地からの報告並びに各支店などへの指令・連絡などをガリ版刷りでまとめたものであるが、ほぼ毎営業日ごとに作成されていたと思われる。『横浜正金銀行全史』第1巻、15頁の説明によれば、「主として頭取席と各店との間の往復重要電信を頭取席文書課が数日置きに取りまとめてプリントし、重役室・頭取席部()長・内外各支店支配人席限りの極秘扱いとして回付したものである」とされているが、発行の頻度はこの説明より高いと思われる。

 本資料をひもといてみると、例えば、綴名に「頭取席要録」が初めて用いられた大正11年後半の第一頁目、第154号の冒頭には、倫敦からの報告として「鈴木商店ニ関シ諸方ヨリ問合セアリタルニ付当店分ニ関スル範囲内ニ於テハ取引上別段変リタルコトナク又本部ヨリモ別段alarmingの報道ニ接シ居ラサル旨ヲ答ヘ置キタリ、然ル処本日鈴木商店支配人来店右風説ニ関シテハ當行其他Oriental Bankニ問合サレ度旨得意先ニ申置キタルニ付可然回答相成度旨依頼アリ、右様ノ次第ナレバ當店参考ノ為実情至急電報セヨ」と記されている。

 鈴木商店の経営が変調であることが倫敦市場の取引先にも伝わっていたものと見られ、これに対して鈴木側では正金銀行に対して取引先に安心を与えるような情報を流すことを期待し、他方で、倫敦支店の側では、何か問題が発生しているのではと疑って本店に関係情報を求めていたということになる。このように、「頭取席要録」は本店の側から見た正金銀行の日常的なオペレーション、本支店間の情報の交換を活き活きと知りうる基本資料ということになる。

 「要録」には、このほか後述の「監査役要録」があり、さらにロンドン、ニューヨーク、大連、上海などの支店の「要録」も正金資料として残されているが、今回のマイクロフイルム化には量的な面での制約から支店の要録は除外せざるを得なかった。

 

 GroupVは、営業決算や財務状態、監査に関わる計数を記録した資料群を収録している。

 その最初は、基礎資料の一つとなる営業報告書で、当初は「実際考課状」と称し、創業の初年度から完全な形でそろえられている。途中から綴の名称は「考課状」であったり、「半期報告」であったりするが、いずれも同一の系統の資料である。その後に続くのが株主名簿、そして、最終決算作成のための行内資料として作成された諸資料である。このうち、各半期ごとの「決算報告」は、前出の考課状・営業報告書の系列の資料とは別の、より詳細な決算状況を示した手書きの資料であり、また、同一名称の資料でも「為替及び金融報告」の系列に属する資料も混在する。これらについては、可能な限り資料の連続性に配慮して配列して置いたが、関連する資料の全てを逐一チェックしたわけではないため、未見資料のなかに本資料に接続する資料が見いだされる可能性がある。タイトルなどの表面的な手掛かりでは判断できないからである。付け加えておけば、こうした資料綴名称の混乱は、決算関係の資料が、重役会の資料のように定型化されて保存されるというような慣例が成立していなかったと思わせるものである。

 決算関係の資料では、このほか重要なものとして、監査に関わる書類がある。このうち、毎期の決算に関わる監査書類は、「決算関係監査用書類」として主として昭和10年代の資料が残されており、また「監査役要録」がそれより少し早い時期から現存している。

 この「監査役要録」ならびに「監査役質問ニ対スル回答書」は『横浜正金銀行全史』第1巻において、編者新井真次氏が「最も貴重な資料と目すべきもの」(3)としているが、その主たる内容は決算に先立って監査役が頭取・副頭取から聴取した報告とこれに対する質問要項、さらに回答からなっており、計数面から見た経営状況の認識、問題の把握を知りうるものとである。

 決算関係の最後は昭和14年からの「各決算諸表」類である。これは各年度の決算をとりまとめる前に調製された支店あるいは勘定項目類別の計算表を各半期ごとにまとめたものである。これに関連して各支店等から報告類も、これより前の時期を含めて資料として残されているようであるが、何分にも分量が膨大である上、ある年の資料は支店名ごとの綴名が付されているだけで決算資料か、往復文書綴など他種の資料かを見分けにくい。また、他方で、そうした支店名ではなく年度で綴名が表示されている場合もあって、このグループに属する資料群の全体像を解明できてはいない。これらは今後の資料整理の上では重要な課題となろう。

 

 GroupWZとは、ともに官庁関係の往復文書を集めている。WとZの違いは、主として文書の内容的な違いによるが、この点は後述する。

 この2つのグループに含まれる資料のうち「諸願伺」として分類されている「諸願伺届書等控」「諸願伺届留」は、見られるとおり多少の名称の変更はあるものの、明治12年から昭和21年までと銀行の存続期間をほぼ完全にカバーするもので、正金史料のなかでももっとも系統性の高い資料群である。この「願伺」の控えと対になるのが「指令」に関する綴りとなるが、こちらの方は、必ずしも明治期には明確に分離されていない。この指令綴りや、大正期から見られる「諸官衙諸願伺届控」、あるいは大蔵省、日本銀行、外務省という個別の官庁を関した往復文書は、基本的にはこの「諸願伺届控」の書類から派生し、特定の役所との往復文書が増加するにつれて、整理のために分離され、その内容に即して綴としてまとめられるようになったものと推定される。

 いうまでもないことであるが、創立から間もない時期から為替銀行としての役割を担い、特殊銀行の一角を担って政府の対外政策に深く関与してきた横浜正金銀行にとって、こうした形での関係省庁との文書の往復は、その経営方針を決定づける重要な意味を持っていたはずである。これらの文書を一つ一つ読み解くことによってこれまで不分明であった歴史的な事実が明らかになることは間違いない。

 ところで、この系列の資料の最初となる「諸願伺届書等控」の最初の一頁は、明治121031日付の「正金銀行創立願」である。通常、同行の創立願は、この10日後の1110日に提出され、その認可を受けて創業発起の手続きが進んだことになっている。ところが、それに先行して「正金銀行」の創立が国立銀行条例に則って出願されていた。しかも、この出願と同時に「銀行名称願」が提出され、「今般出願仕候正金銀行之儀御許可之上ハ国立東海銀行ト相称シ度此段奉願上候也」となっている。いずれも大蔵卿大隈重信宛の願書であるが、日付は不明ながら「右願書改正スベキ廉有之下戻サル」と記録されており、これを受けての1110日の再度の出願であった。この1031日付の出願は、『横浜正金銀行史』(大正9年版)の「附録 甲巻之一」に「創立願書(却下ノ分)」としても収録されているものである。従って、既知の事実であるが、『横浜正金銀行全史』など考課状を基礎としている一般的な創立の経緯の叙述は、この「却下された」創立願にはふれないことが多い。それほど重要な問題ではないということであろうが、最初の出願のままであれば、行名は「東海銀行」であり、横浜正金銀行ではなかったことになる。『横浜正金銀行史』の附録は、採択された願書を冒頭に掲げているために見落とされやすいのかもしれないが、もとの資料にもどると日付の順序に従うために「却下の分」に目がいく。こうした資料との出会が創立期の挿話を、改めて「発見」されてくれたように思う。閑話休題。

 2つのグループに属する各文書綴のタイトルは、一定期間継続しているものの、変更の時期などもまちまちで、またタイトル間の関係は必ずしも明瞭ではない。ただし、公式の許認可に関わる事項は、GroupWの「願伺」などに継続的な収録されている。これに対して、GroupZにある「大蔵省」との往復文書は、来簡だけを綴ったものもあり、他方で正金からの報告等を含むものもあるなど定型的なまとめ方とは言えない。しかし、内容から見ると、「願伺」には含まれない文書を大正15年よりファイリングしたものと見てよいようである。この文書量が昭和12年までは各年1冊であったのが順次増加して昭和15年には8冊、17年には各月1冊と増えていることに戦時統制のなかで発生する事務量や情報量の多さを伺い知ることができる。

 同様に、日銀関係では、「諸官衙・日本銀行諸願伺届書控」が昭和118月〜昭和21年まで残されているほか、大正4年3月から昭和8年にかけては「日本銀行 諸願伺届書控」があり、この両者の関係は明確ではない。また、このほかに、GroupZには「日本銀行総裁」「日銀営業局」「雑」などに分類された資料群が含まれており、これらも大蔵省関係資料と同様の性格のものと考えられる。いずれにしても、資料の具体的な読み込みによって、その性格を明確にしていく作業が今後の課題になっているということであろう。

 これに対して、「指令」と分類される資料群は、正金側からの出願、伺、届に基づかない、官庁側からの営業活動への介入などのケースに出された文書をまとめたもののようである。たとえば、明治38116日付け、本資料に最初に綴られている文書は、牛荘支店において「軍用手票」を預金として預かるようにとの指令であり、それを追いかけるように、この軍用手票と円銀との交換レート、あるいは上海との為替取り組みなどが大蔵大臣から指令された文書が綴られている。日露戦争との関係が深いものであろう。

 また、GroupWには「諸官衙、銀行、会社 来翰」という綴りも見られ、往復文書が民間企業に関連してもファイルされることにも注意を要するが、多くの場合は件名のみで文書そのものを残していない。

 

 GroupX「通達」には、基本的には行内文書と想定される資料群をまとめた。だたし、この資料については、保存の形態が変わっており、これまで紹介してきたような綴りの形式ではないことに留意しておく必要がある。すなわち、「通達 明治年間(18821911)(四十四年迄)とされている資料から、「通達  一九四二(昭和十七年)まで84点の資料は、すべてA4版大の封筒に、それぞれ目録付きで収められている。封筒の形式、内容目録をとった罫紙の書式や字体などがこの間ほとんど変わっていないことから、発生時期にその都度まとめられたものではなく、何らかの事情で後日、系統的に文書を整理し直してまとめられたものと推測できる。明確ではないが、これらは、後述の「岸資料」と形式等の類似性が強いことから、これと一連の資料として、編纂されたものではないかと推測される。

 

 GroupY「行報」は、行内情報誌であり、明治415月の第1号から大正86月の第135号までが現存する。内容的には、行内向けの情報として、「諭達」「通牒」「経済事情」などの記事から構成され、毎月1日と16日の二回発行されたようである。経済事情に関する大部の調査は「行報付録」として発行されている。

 この資料の主要な部分は大正811月から調査課が発行を始めた「通報」に継承されている。全体の分量の調整のため「通報」は本マイクロフィルム資料には収録していないが、「通報」も「内外各店支配人御中」と表紙に刷り込まれている行内向けの文書である。月二回10日と25日の刊行であり、主要な記事は「特別寄稿」「支店報告」「内国時報」(為替・金融・貿易・商品)「外国時報」(英国・米国・独逸・露国・支那・・・)「雑録」に分けられており、「行報」とは異なって、諭達・通牒・人事関係などの記述はなく、「通報」に継承される時に、調査課の行内向け情報誌へと性格を変えたということができる。この通報でも、大部の調査は付録として発行されており、たとえば、通報号外第七十六号「昭和十三年上半季 各国経済景況」は、600頁に近い大冊である。

 

 GroupYの「資料」には監査役会に提出された「本行大取引先信用取引協定額及其現状調」大正15−昭和6年などの特殊の調査を含めた。この資料は本来であれば、「監査役要録」などと並んで整理・分類されるべきものかも知れないが、暫定的に「資料」として分類してある。

 「資料」の中心部を占めるのは、「岸資料」と東京銀行内の銀行史編纂関係者のなかで呼ばれていた資料群である。この資料については、『横浜正金銀行全史』(4)に、昭和131月の重役会決議に基づいて正金銀行史の編纂が行われることになったときに、その編纂主任となった岸(駿)調査課次長が収集した資料であり、これを終戦後に東京銀行が正金銀行史の編纂を開始したときに取り出して整理した際に「岸資料」と命名されたと説明されている。内容的には、主題別に「行是・内規」から始まり、以下順に、定款・條例・株主総会、機構・制度、人事、役員・各課幹部人名、統轄・統制・検査、計算・計算規定、貸出・与信、転貸、借款、調査、電信・文書・情報・コルレス、方針、銀行券、政府、日銀、資金・金繰・金融・金利、事務手続、信用状・指図書、成績、競争・同業、覆轍、支店長会などの事項が設定され、それに即して行内の文書が分類整理されている。ありうべき、正金銀行史資料の分類項目を示すものということもできる。この「岸資料」は、正金資料の原本によってはカバーしきれない資料を含む貴重な資料群であることはいうまでもない。

 

 以上が本マイクロフィルム資料に含まれる資料の全体像である。貴重な企業資料でもあり、また、横浜正金銀行の性格からして、重要な政策文書でもある。収録にあったっては、個人のプライバシーなどに配慮すべき点は配慮し、歴史的な事実として公開しうる範囲に限定して、研究目的の学術資料として公開するという原則をまもることを指針とした。これは、貴重な資料を寄贈しマイクロフィルム資料として公開することを認めてくださった原所蔵者である東京三菱銀行の強い要請でもある。このような学術研究にとってかけがえのない資料を公開するためには、利用する研究者の側も遵守すべきルールがあることを、私たちは片時も忘れるわけにはいかない。そのことに特に注意を喚起し、また、そうした明確なルールに基づいて資料が利用されることによって、今後一層の資料の保存・公開が可能になるということを、本資料の利用者の皆さんに特にお願いして、解題の筆を擱くことにしたい。